SS『コウハイ』
※超魔生物改造後、大魔王に謁見したハドラーがそのまま処刑されたら。
魔族が一人死んだ。
男の名はハドラー。
彼は己の身を超魔生物に改造して勇者と一戦交えた後、主君である大魔王バーンに処刑された。
ハドラーの意気込みが認められなかったわけではない。
自らの体を捨てる覚悟や魔獣と化して得た力をバーンは高く評価した。これまでの失態を補ってあまりあるほどに。
ハドラーの見せた煌きこそが、彼の命を刈り取る刃となった。
追い詰められた者の姿を楽しみ、覚醒を待ち望んでいたバーンの口元からふと笑みが消えた。
囁きかける声があったのだ。
ここで処刑しておかねば己の覇道の妨げになると。
唐突で根拠のない警告をバーンは無視しなかった。慢心に鈍っていながらも、王の本能は未来の脅威を嗅ぎ取った。
大魔王は通告を破棄せず、戦士に対する心からの称賛とともに死を与えた。
ミストバーンはハドラーの表情の変化を知ることはできなかった。
後方から見えたのは跪いたハドラーの背中と、せめてもの餞にとベールに包まれた玉座から下りて素顔を晒した主の姿だけだ。
ミストバーンは大魔王へと近づいていく。歩む速度は常とさほど変わらない。
生者と死者の間に立ち、亡骸を見下ろす。
ハドラーは跪いた姿勢で面だけ上げていた。今にも立ち上がりそうだ。
謁見する直前と何ら変わらない姿に流血や傷は見当たらない。銀色の髪もそのままだ。表情に苦悶も無い。
ただ一つ違うのは、双眸だった。
目には底知れぬ闇が湛えられている。
ミストバーンは無言で片膝をついた。
指を上から下に滑らせ、男の瞼を下ろしてやる。死者のためではなく己のために。
闘志を宿さないハドラーの目は見たくない。
間を置かずにミストバーンは立ち上がった。
背筋を伸ばして佇む姿に異変は感じられない。わずかに眼の光が細くなっているが、それだけだ。
ミストバーンは物言わぬ骸に視線を向け、処遇を考える。
大魔王の部下として最期を迎えた戦士だ。弔うことも許されるだろう。
ミストバーンは蒼白い衣を折りたたむようにゆっくりと身をかがめる。
上腕を掴んだ瞬間、異様な感覚が伝わってきた。
金属に包まれた指は、あまりにたやすく対象にめりこんだ。
黒いマントの下の身体が灰に変じているためだ。
ミストバーンは動かない。亡骸に触れた体勢で固まっている。
命の抜け落ちた体躯が少しずつ形を喪っていく。
目の前でハドラーだったものが崩れていく。
ミストバーンの腕にわずかな重みが加わった。ハドラーが身に着けていた衣や装飾品が支えを失いのしかかったのだ。
滑り落ちるそれらに構わずミストバーンは指を動かしたが、何も掴めない。
冷たい指から逃れるかのようにさらさらと粉が零れ、無駄な行為を憫笑する。
「……あ……」
風が吹いた。
灰がふわりと舞い上がり、音もなく落ちる。
ハドラーという男が生きていたことも、勇者達と戦ったことも、全て夢だったのではないか。そう思わせる光景だった。
夢幻でないことを証明するかのように、ミストバーンは直前の会話を思い返した。
『お前には、その沈黙の仮面の下に流れる熱い魂を感じずにはいられん』
喜びをもたらした台詞が霧の中で虚しく響く。
宝物となるはずの言葉が胸の奥深くに食い込んでぎりぎりと音を立てる。
わずかにぎこちない動きで身を起こす部下にバーンは何も言葉を掛けない。皴の刻まれた顔に笑みは浮かんでおらず、張り詰めた空気が漂っている。
バーンは身を翻し、玉座の側方に設けられたバルコニーへ向かう。石製のテーブルや椅子が設置され、天を望むことができる場所だ。
光の射す方へ進む主に従ってミストバーンも足を動かす。
歩きながら周囲に目を向け、異変がないことを確認する。
脅威も障害も見当たらない。
空模様も、雲こそ多いものの穏やかだ。
雷鳴が轟くわけでも、風雨が荒れ狂うわけでもない。
世界は何も変わらない。
心に灰が降るだけだ。
ハドラーから予想外の言葉をかけられ魂に射した光は、黒い灰に遮られて見えなくなった。
急に与えられ、すぐに取り上げられた感情に、熱までもが奪われてしまった。
残ったのは荒涼とした心地のみ。
ミストバーンは立ち止まり、太陽を見上げた。陽光は生命を祝福するかのように降り注いでいる。
気づかぬうちに視線が足元の影へと落ちる。
光を背負う身が、重く感じられた。