猪熊吾牛が強制救済ゲームに参加させられる二年前。
吾牛は物音のした方に顔を向けた。
目的もなくぶらついているうちに人気のない場所に通りかかった吾牛の耳に、異音が届いたのだ。
繰り返し響く鈍い音の正体を、不良である彼はすぐに察した。
(喧嘩か)
音の発生源へ足早に近づきながら耳を澄ませる。
音から察するに展開は一方的なようだ。喧嘩ですらないリンチかもしれない。
辿り着いた彼の眼に飛び込んだのは、予想した通り私刑と呼ぶべき光景だった。
喜悦に顔をゆがめた学生達が一人の少年を囲んでいる。彼らは一様に下卑た笑い声を浴びせ、殴打や蹴りを見舞う。
少年は腕で頭を庇い、体を丸めている。声を上げず暴力の嵐に耐えている。
彼の面には苦痛の色すら薄く、浮かんでいる感情は無に近い。暗い目はぽっかりと開いた洞のようで、何も映していない。助けを求めても無駄だと悟っているかのように。
少年は諦めている。救世主は来ないと。
その表情を目にした瞬間、吾牛の体が動いた。見たくないものを掌で隠すかのように、反射的な動作だった。
闘いが終わるまでさほど時間はかからなかった。
一人を嬲り者にしていた男達は吾牛一人に叩きのめされ、地に寝ている。
複数相手とはいえ、吾牛の被った被害は多少手傷を負った程度だった。
リンチされていた少年に視線を向けると、彼は立ち上がる力もないのか地面に座り込んでいる。髪は砂埃で汚れ、ぐしゃぐしゃになっていた。顔は血まみれで、頬が腫れ上がり、片目がふさがっている。
かすかに口を開けている顔は、現状を理解できているようには見えない。物も言わず途方に暮れており、喜ぼうにも喜べないようだ。
この場で脅威を排除しただけでは彼の憂いは解消されない。新たな敵に虐げられる可能性に怯え、うなだれ、彷徨い続けるだろう。
己の歩みに何の価値も見いだせないまま。
そう考えたところで、吾牛の口が自然と動いた。
「……男は歳をとればとる程、自分の力だけで這い上がる能力が必要になってくる」
自身の行動に驚きながらも吾牛の言葉は止まらない。口が勝手に台詞を紡ぎ出し、少年の表情を徐々に変えていく。
「だが今が弱くてツラいのなら、これから強くなればいい。男の強さには無限の可能性があるハズだから」
死人のようだった少年の瞳に光が灯った。
彼は俯いて、震える声で礼を述べた。
その場を去った吾牛は苦々しげに吐き捨てた。
「……らしくねえ」
他者との関係を築く気がない人間が人助けを行うなど柄にもない。ましてや、必要も無いのに言葉をかけるとは。
憂さ晴らししたかったならば、喧嘩を終えてそのまま立ち去ればよかった。
己の心の内を探る吾牛の口から重い溜息が漏れる。
似つかわしくない行動をした理由は薄っすらと見えている。
誰かを救うことで、己の人生に価値があったと思いたいのかもしれない。
言葉を贈ることで、誰かの心に何かを残したかったのかもしれない。
浮かんだ考えを吾牛は暗い声で否定する。
「何も……ねーのによ」
人間とは忘却する生物だということを、吾牛は知っている。
先ほど助けた少年も吾牛のことは忘れてしまうだろう。
むしろ相手のためを思えば、すぐに忘れることを祈るべきだ。吾牛に助けられた記憶はそれまで虐げられていた記憶とつながっており、覚えていたところで辛いだけなのだから。
少年にとって不良とは、弱者を痛めつける恐ろしい存在でしかない。
助けた吾牛とて不良であることに変わりはない。今回はたまたま人助けする形になったが、力で気に入らない相手をねじ伏せてきたのだ。
感謝どころかクズ同士の潰し合いと唾棄されてもおかしくなかった。
考えれば考えるほど、相手の記憶に留まる理由がない。
「変わんねえんだ」
周囲も。自分も。
吾牛は雲一つない空を見上げ、小さく息を吐いた。
彼の『世界』は色褪せている。
自分の人生に何があったか。これから何があるのか。
吾牛の心に繰り返し同じ疑問が浮かび、同じ答えが返ってくる。
今までの歩みを振り返れば、今後どのような生を送るか容易に想像がついた。
誰からも関心を向けられず、助け合う相手もおらず、茫洋として時を貪るだけ。草を食む牛のように。
怠惰な獣として空っぽな生を送り、死んでいくのだと諦めていた。
時が現在に戻っても、吾牛の考えは変わっていない。
室内にいるのは彼同様、ガラの悪い高校生。
一目で不良と分かる彼らが強いられているのは命懸けのゲームだ。
集められた者達の中から『仏』が選出され、命の危機に晒される。
『仏』を『救世主』が救うことでゲームが進行するのだが、『救世主』は手を炎に焼かれるという拷問じみた仕打ちに耐えねばならない。
救うと宣言することは簡単でも、実行するには覚悟が必要とされるのだ。
ゲームの主催者が求めているのは輝かしい物語だ。
罪を犯した者達が悔い改めること。
互いを思いやり、助け合うこと。
それによって暴言や暴力の無い、優しさに満ちた空間が作られる。
最初は数名だけの小さな規模でも、少しずつ広がっていけば、やがて世界は争いのない楽園となる。美しいシャングリラが形成される。
それが命懸けのゲームを強いる者の主張だった。
理想を滔々と語られ、自分達が実験台だと知らされた一同の表情は呆れに統一されていた。狂人の戯言を聞かされたような反応だ。
吾牛も例外ではない。
彼の気持ちを簡潔に表すならば、「馬鹿馬鹿しい」の一言に尽きる。
最も身近な人間――両親すら自分のことを愛さなかった。吾牛の目にはそう映った。
人を思いやるとはどんなことか実感できず、他人と心を通わせずに生きてきた。
助け合う相手も支えてくれる者もおらず、頼れるのは自分だけ。
そう信じて生きてきた吾牛にとっては、助け合いだの楽園だの聞かされても机上の空論以外の何物でもない。
奇跡が起こって主催者の描く世界が築かれたとしても、自分はその住人にはなれない。美しい輪に加われず、外から虚しく眺めるだけだ。
救済も、楽園も、彼の人生には存在しない。
救世主は現れない。
吾牛は目を見開き、凝視する。
炎に包まれた装置に手を伸ばす青年を。
「どうして……」
我知らず、吾牛の口から呟きが漏れる。
目の前の光景を理解すべく、彼は何が起きたか思い返す。
十数分前、吾牛は『仏』に選ばれた。
このままでは死んでしまうと知らされても吾牛は取り乱さなかった。『救世主』を決める会議においても平静さを保っていた。
彼はすぐに諦めたのだ。
激痛を覚悟してまで面識のない人間を助けようとする人物はそういない。助ける対象が善人でもハードルが高いというのに、罪人となればますます望みは薄い。両親に暴行を加えて病院送りにした不良に手を差し伸べる者などいないだろう。
頼れるものは自分だけ。
いつも通りの結論に至り、吾牛はあることを試そうとした。
『仏』自身がスイッチを押せばどうなるか、確かめようというのだ。
生に執着し、少しでもあがくために試みるのではない。どうせ死ぬのならば他の人間に情報を与えようという、諦念から生まれた考えだった。
吾牛の暗い思考を必死な声が遮った。
「吾牛! 頼む、考え直してくれ!」
声を上げたのは、北高二年の小森孔司。
彼は吾牛の実験をやめさせようとした。
『仏』自身がスイッチを押したところで助かる見込みは薄い。主催者が望んでいるのは他者への思いやりや相互の助け合いだ。一人で完結する救出劇など認めないだろう。
危険な真似はさせられない、死んで役に立とうとするなと小森は訴えかける。
己に生きるよう説得する人間が現れたことに吾牛は驚いた。
(お人よしだな)
小森は、知り合ったばかりの人間が生を諦めていることにもどかしさを感じ、望みを持たせようとしている。
親友である八木山兎との友情を吾牛が羨んだ時も、生還できたら美味い物を食べに行こうと誘った。
小森が図抜けて優しいわけではないが、殺伐とした日々を送る吾牛にとって、必死に呼びかける小森の姿は優しいと評するに値した。
意味のない説得にこれ以上労力を費やさぬよう、吾牛は小森に『救世主』役を引き受けるか問うた。
答えは無かった。
言葉に詰まった小森を見て、吾牛は申し訳なさを感じた。
小森はすでに八木の『救世主』に立候補し、手に火傷を負っている。もう一度『救世主』をやるのは困難だ。
誰にも顧みられなかった自分とまともに向き合おうとした人間がいる。吾牛にはその事実だけで十分だった。
自分の実験が彼らの役に立てばいい。小森達には生き残ってほしい。
そう願いながら会議を終えようとした吾牛を制したのは、西高二年の今蛇犬丸だった。
ヘビと呼ばれている男は『救世主』になると宣言し、理由を語らないまま深呼吸した。無言で手を動かす。
彼は表情をほとんど変えずにスイッチを押し続ける。手を火に焙られる痛みに耐えながら。
初対面のはずの相手に命を救われたことに吾牛は驚いた。笑みとともに感謝を述べると、ヘビは吾牛の認識を静かに訂正した。
「僕とアナタは初対面ではありませんよ」
そう告げて、ヘビは過去を――吾牛との出会いを明かした。
彼が不良達のリンチから助けた少年が、今蛇犬丸だったのだ。
「あの時のボサボサ頭が……」
彼は吾牛を忘れてなどいなかった。
それどころか、出会いを深く心に刻んでいた。
「あの時の恩を返すことができて、本当に良かった」
「そう、か」
ぽつりと呟いて、吾牛は表情を決めかねたように頬に掌を当てる。
自分が起こした行動が巡り巡って、大きくなって返ってきた。
予想しなかった事態に吾牛の思考が追いつかない。
「アナタと出会っていなければ、僕は諦めていたでしょう。……きっと、何もかも嫌になっていた」
わずかに沈んだ声に、吾牛の脳裏にかつてのヘビの虚無を湛えた表情が浮かんだ。
自分にも世界にも倦んでいる表情には見覚えがある。鏡を見るたび目に入るものだった。
「……あんな顔しなくなったなら何よりだ」
独り言に近い吾牛の呟きに、ヘビは笑みを返す。
「アナタの言葉があったからですよ」
自分一人の力で這い上がれ。強くなればいい。それらは突き放すようにも聞こえるが、ヘビにとっては違った。
当時ヘビは諦めに浸っていた。
誰も助けてはくれない。どうせ自分は弱いままで、変われるはずがない。これからも苦しみに満ちた日々が続くだけだ。
吾牛の行動がそれらを砕いた。不良達を倒し、言葉も合わさったことでヘビの考えを変えた。
「吾牛さんの言葉が背を押してくれました。弱くて情けない僕でも強くなれると」
闇に覆われていたヘビの心に光が差した。
吾牛はヘビが諦めかけていたところに現れ、目に映る世界を一変させたのだ。救世主のように。
晴れやかな表情で語るヘビに吾牛の心も軽くなった。
誰かを救い、救われた。
「俺は……」
吾牛は周囲を見回した。
命を捨てるなと訴えかけた者がいる。火傷を負ってでも吾牛を生かした者がいる。
前者は沈んでいく心を掬い、後者は死へと近づく命を救った。
己の人生に彩りはないままか。
歩みに何の意味も無かったのか。
自分の『世界』に救世主は存在しないのか。
今ならばその問いに違う答えを返せる気がした。