ルナが吸血鬼らしからぬ一時を過ごしていると、シルフィールが泣きそうな顔で訪れた。
大人しい彼女が息せき切って駆けつけるなど、普通は考えられない。
ただならぬ様子に、のんびり茶を飲みながら午後の一時を楽しんでいたルナは、カップを取り落としかけた。
シルフィールはあまり村を訪れようとしない。革命戦争に関わった人間と出くわしては面倒な事態になるためだ。その彼女が後先考えず飛び込んでくるなど、普通は考えられない。
「ど、どうしたんですか?」
「マスターが……!」
「えっ……カオスさんが!?」
飛び降りようとしたカオスを、レヴィエルが力ずくで引きとめ、屋敷に連れ帰った。
同じことを繰り返さぬよう、ルナだけでなくレヴィエルも定期的に訪れていた。カオスの心の錘を軽減することを目的としているが、監視も兼ねている。
己を滅ぼすという考えを完全に捨ててはいないだろうが、少なくとも表面上は、計画を進める前と全く同じ生活に戻っていた。
変化は無いようだったが、再び命を絶とうとしたのか。
恐る恐る尋ねると、シルフィールは否定する。
封印を施され、機能を停止したはずのアルハザードが、契約者を喰らい出した。
最悪の魔剣と恐れられた武器は、中断された契約を遂行しようとしている。獲物から遠ざけられた分を取り戻すかのような勢いで。
「カオスさんなら、封印をかけ直すことも――」
それも放棄し、消滅を待っているのか。
言葉にできなかった考えを、シルフィールは再び否定する。
「マスターは……封じようとしました」
最高峰の知識と技量を誇るカオスならば、止められるはずだった。
魔法陣は正しく機能している。
効力を発揮している封印をも超えたのは、彼の感情に強く共鳴したためかもしれない。滅びを望む心が、存在の消滅をもたらす魔剣に伝わり、暴走を引き起こした。
彼自身は何ら行動を起こしていない。
ただ、絶望を捨てきれなかった。
無くそうとしても無くしきれない感情が、今回の事態を招いた。
屋敷の扉を開いたルナは、目を丸くした。
恐れた光景は広がっていない。
カオスは薄い笑みを浮かべ、以前のように応接間の椅子に腰かけている。机に両肘をつき、ゆるく組んだ指の上に顎をのせている。
「どうしました、血相を変えて」
軽く首を傾けて、彼は尋ねた。昼下がりに相応しい、ゆったりとした口調で。
「どうしたもこうしたもありません、体の状態は!?」
慌てる彼女に、呆れたように大きく息を吐いて見せる。
「大げさな。そう簡単には参りませんよ」
魔剣は書斎に作った魔法陣の中央に置いてある。うんと遠ざければ、というルナの提案は却下された。ただ距離を離したところで効果は無い。危なくなったから捨てるだけで喰われずに済むならば、最悪の魔剣とまでは呼ばれない。
今の状態の魔剣を放り出しては、どんな災禍を招くかわからない。空間の魔術を用いて遠ざけた場合、好ましくない変化が起こるかもしれない。手元に置いて監視する必要があった。
壊そうにも、最高峰の魔剣だけあって極めて難しい。今のアルハザードは狂っていると呼ぶべき状態だ。破壊を試みれば牙を剥くだろう。仮に実行できたとしても、今まで喰らい続けてきたものがどのような形で吐き出されるか、未知数だ。災厄をまき散らす可能性もあった。
説明を受けながら、ルナはひとまず胸を撫で下ろした。
(よかった、まだ……)
戦闘で力を使わない分、進行も遅いのかもしれない。
ルナは傍らのシルフィールを窺った。彼女の面は晴れない。
深刻な様相でないにも関わらず狼狽した理由も、ルナにはわかる。
主の身に異変が起こった。大抵の問題は容易く解決できる彼が、そうできずにいる。
カオスこそが絶対と考えている彼女にとって、天地が崩れゆくような衝撃だろう。
心を向ける相手の苦痛を、「生命力が強いから、そのうち解消されるから」で片づけることなどできない。呪いに倒れたレヴィエルを、ルナが助けようとしたように。
「今のうちに、改めて対策を練りましょう」
時間は十分残されている。
明るく告げたルナに、カオスは何かを言いかけて、果たせなかった。
肘が滑り、指が解ける。頭が机にぶつかり、鈍い音が響いた。
「マスター!」
シルフィールの叫びが、ルナの心を抉った。
机に突っ伏した彼の手が、震えながらも動いた。無意識の内に胸を押さえた彼の口から、苦しげな息が漏れる。
常と変わらぬ態度の裏で、侵食は急速に進行していた。ここまで平静を装っていられたのも精神力の賜物だろう。演技を続けたのは、絶対たる存在の矜持か、使い魔がいるからか。どちらにせよ、何の意味も無くなった。
ルナが慌てて体を抱え起こしたが、今や顔色を失い、目から光が消えている。
「カオスさん!」
魔力が流れ出て行くのを感じる。これほどの勢いで力を吸われては、常人ならばひとたまりもない。
生命力が強いからこそ、意識を失うこともなく苦痛を味わい続けている。
本来アルハザードは、使用者の命を削る代わりに戦う力を与える魔剣だ。今『喰らい尽くすもの』の名を冠された剣は見境なしに貪り、戦う力までも刈り取っている。
ベッドに横たえられたカオスは、力無く瞼を閉ざしている。時折激しく咳き込み、体が揺れた。
苦しむ主の姿を前にして、シルフィールの面が悲嘆に染まった。
(私のせいで、マスターが)
自分が契約しなければ、カオスが負担を引き受けることも無かった。
食い入るように主を見つめながら己を責める彼女に、そっけない声が届いた。
「所持して、いたのも……貴方に、持たせたのも……私、です」
使い魔が何を考えているか、彼は見通していた。
「貴方の、考える問題では……ありません」
突き放されたシルフィールは、深く頭を垂れた。詫びるように。感謝するように。
扉の開く音を聞き、ルナの顔が輝いた。
「レヴィエル!」
入ってきたのは、黒衣の剣士。
ルナの面に驚愕の色は無い。迎えに来るのは三十年後だと約束したが、すでにカオスの屋敷で遭遇している。
ちょうど彼が訪れる時期だったのが幸いした。
大股に歩み寄るレヴィエルに、早口で状況を説明する。おおよそを把握したレヴィエルは早速力を注ごうとしたが、効果は薄い。
彼は魔力の流れを見ようとした。
カオスの全身を赤黒い光が包んでいる。彼から伸びる禍々しい光の帯は、書斎の魔剣とつながっている。
狂った魔剣のせいで流れが乱され、他人が力を与えることは難しい状態だ。
ルナがカオスの体を診る一方で、レヴィエルが書斎に進み、安置されている魔剣を見据えた。
「……私が、主に」
感情に任せただけの判断ではない。
封印の知識や技術に関してはカオスの方が優れている。現状では理論を構築するどころではないが、一時的にでも矛先を逸らせば、より強力な封印を編み出せるかもしれない。レヴィエルやルナが方法を探すよりは確実だ。
この中で最も魔力の量が大きいのはレヴィエルだ。この世界の何者よりも、耐えられる。
「いけません……レヴィエル」
かすれた声が響いた。
レヴィエルは無言で振り返り、険しい視線を向ける。寝室に運ばれたはずのカオスが、よろめきながらも姿を現した。ルナは最初押しとどめようとしたが、意識を奪わないと止められそうにない。戻ってほしいと思いながらも、シルフィールとともに体を支えて連れてきた。
「私は、そんな――」
苦しい息の中から声を絞り出した彼を、レヴィエルは軽く睨んだ。眼光に封じられたかのように言葉が途切れる。
首を垂れたカオスを、ルナとシルフィールが再度ベッドへ運ぼうとする。
腕から身を離し、彼は拒絶した。
今の彼にレヴィエルを止める力は無い。ならば、せめて見届ける。
探求者の性か、所有者の責務ゆえか、壁に背をつけて体を支えながら彼は言った。シルフィールは休んでほしいと目で訴えたが、心を変えることはできなかった。ルナの言葉も聞き入れようとしない。
レヴィエルは溜息を一つ吐き、受け入れた。
気持ちは理解できる。己の力を過信するカオスではないが、対処できずにいるのは屈辱だろう。
今回は意図せず、過失に近い形で引き起こした事態なのだ。自分がカオスの立場でも、肩代わりさせるのは受け入れがたい。誰かに押しつけて寝ていられる心境ではないはずだ。
寝室に持って行って進めようとしても、一応効力のある魔法陣から動かすわけにもいかない。
せめてもの妥協案として、ルナ達が椅子へと連れて行った。豪奢な白い椅子に深々と身を沈め、背もたれに体重をかけたカオスの前で、レヴィエルは剣に呼びかける。
「アルハザードよ、汝が主の変更を――」
言葉が途切れた。命令が拒絶されたと知ったのだ。言葉を聞き入れるどころか、干渉を拒むように波動が迸り、レヴィエルの手を焼いた。
途中で主を変えた結果、封印を施され、喰らい損ねた。主を変えては同じことが起こると察したのか、変更を受けつけようとしない。
傷ついた手を庇おうともせず、レヴィエルは舌打ちした。
契約者と認める気は無いようだ。
シルフィールが何かを決意したように唇を噛んだ。
彼女が手を伸ばすと、アルハザードは弾かなかった。それに勇気を得たように、呼びかける。
「本来喰らう相手は私のはず。変更は取り消します。だから、私を。私だけを……!」
目を見開いたカオスの、力の流出がわずかに鈍った。
アルハザードが歓喜を表すように震える。中途半端に齧ったところで取り上げられた餌が、自ら飛び込んできたのだ。
濁った色の雲がカオスからシルフィールへと移りつつある。しぶとい獲物から注意が逸れた気配が伝わってくる。
吸収速度が跳ね上がっている現在の魔剣では、彼女は瞬く間に喰らい尽くされてしまう。主と認められれば終わりだ。
彼女の表情には恐れも迷いも無い。レヴィエル達と戦う直前もそんな顔をしていた。
その時カオスが抱いた感情が、再び湧き上がる。頭の奥に痛みが走り、狂うはずのない思考が乱される。
作り物の身にまとわりつく虚しさは、彼にも覚えがある。製作されたことを無邪気に喜ぶ気にはなれなかった。
シルフィールの場合、生み出された目的や経緯を考えれば、いっそうやり場のない感情を抱いてもおかしくはない。
意識も魂も別物でありながら、他人の名で呼ばれ続ける。他人の代わりとして作られながら、そう見られることはない。
殺戮を喜びとするはずの悪魔とて、存在する意味を見失い、苦悩する者もいる。届かぬ使命を抱えたままの彼女は苦しんできたはずだ。悪魔と違い、同じ境遇の仲間と悩みを共有することもできない。
「貴方を生み出し、与えたものは――」
命や魂とともに、果たせぬ使命を背負わせた。己の夢のために、存在すら失わせるところだった。最後は一人残し、孤独に閉ざそうとした。
シルフィールは不満を口にするどころか、喜んで身を捧げようとしている。
自動的に刷り込まれた、使い魔としての本能だけでは説明がつかない。自我を持たず、命令に従うだけの駒とは違うのだ。自分の心があるのだから、簡単に全てを投げ出すわけにはいかないはずだ。
彼の靄を払おうとするかのように、シルフィールは宣言する。
「生み出された時、すでに……全てを与えられていたんです。それからも、ずっと」
胸に掌を当てて、彼女は明るく微笑んだ。
「貴方が、貴方だから。お仕えしようと決めたのです」
本能もあるだろうが、最も大きいのは彼女の意思。
生み出した相手だからという理由だけではない。彼でなければ、恩を感じ、感謝し、力を尽くしても、ここまで自身の意思が占めることはなかったかもしれない。魂の一片残さず忠誠を誓うことも、誇りを抱きながら命を捧げようとすることもなかっただろう。
彼の姿を見、心に触れ、歩んできた道を知って、自分だけは何があろうと仕えようと決意した。与えられた魂や芽生えた自我、彼との日々で形作られた心の全てをもって。
「貴方はそれでよくても。コイツはどうかしらね?」
立ち尽くすルナの耳に、涼しい声が飛び込んだ。艶やかな声音には、好奇心めいた響きさえ宿っている。
鮮やかな色の髪が翻る。
最後の一人、リスティルが現れた。詳細に語られずとも状況を察したようだが、悠然と歩む。
客人に応対することも忘れ、カオスは使い魔を見つめている。
譲れぬもののために滅びを選ぼうとしている彼女の表情に、ある人間の姿が重なる。
彼が愛した相手は信念を優先し、彼の望みに反して死へ歩んでいった。
使い魔は今、同じことをしようとしている。
記憶の一部になろうとしている。
思い出の中の、住人に。
彼は腰を浮かし、止めようと手を伸ばした。
「止めなさい……! それだけは――!」
消滅を望みながらも封印をかけ直そうとしたのは、こうなることを避けるためだった。
使い魔と過ごした日々は、愛する者との時間と性質は違えど、失いたくないものだ。今を捨てきれなかった理由の、重要な位置を占めている。
最愛の人間が過去にしか存在しなくなった時、世界から色彩が消えた。
使い魔まで消えれば欠落がどれほど大きくなるか、考えられない。
それは記憶や思い出では埋められない。
過去が美しいほど、存在の大きさを実感するほど、喪失もまた重くなる。心の糧になったと割り切り歩んでいけるならば、摂理に逆らいあがくこともなかった。
「少しでも、与えられたものをお返しできるならば。本望です」
己の影響を理解していない台詞に、カオスの眼に焦慮が浮かぶ。
自分の感情も、相手から何を与えられたのかも、伝わっていないのが歯がゆい。相手も同じ悩みを抱えていたことに気づかぬまま、焦りばかりが募る。
力の入らぬ手足が、魔術を行使することもできぬ身が、もどかしい。
自分は使い魔を残していこうとしたのに、使い魔の方が去るのは厭うなど、勝手だとわかっている。自分が味わわせようとした苦しみが跳ね返ってきたと言われれば、それまでだ。
かつて、彼女では己をこの世に留めることはできないと思い知らせた。最も大切な相手も、もう休みたいという願望も、変わっていない。そんな己が大切だと告げたところで、欺瞞にしか映らないかもしれない。
己の夢のために生きた証を奪おうとしておきながら、今さら消滅を防ごうとするなど矛盾している。この世界に耐えられないと嘆き、自分の命ごと全ての関わりを断ち切ろうとした者の行動とは思えない。
そう思いながらも、止めずにはいられなかった。
苦痛に苛まれた挙句命を奪われる姿など、もう見たくはないのだから。
「命令を……忘れたのですか!?」
矛盾に満ちていようと、欺瞞と言われようと、生きろと命じた気持ちだけは偽りではなかった。
真っ先に動いたのは、叫びを聞いたレヴィエルだ。力ずくで魔剣からシルフィールを引き剥がす。間髪入れずルナの方へ押しやり、ルナが背後から抱きとめる。すぐさま身を翻したレヴィエルはアルハザードに魔力をのせた刃を叩きつけ、己に注意を向けさせる。
「離し――」
「駄目です!」
抗議するような目を向けたシルフィールに、ルナはきっぱりと告げた。
手荒だろうと、本人の意思に反していようと、見過ごせない。シルフィールの身を案じただけではない。ここで彼女を喪っては、カオスがどうなるか簡単に想像がつく。
俯くシルフィール同様、ルナも顔を翳らせる。
悲しいほどによく似ている主従だと、彼女は思った。互いへの想いがすれ違うところも。たった一人の相手を思い続けるところも。死を選ぼうとするところまで。
だからこそ、ここで終わらせるわけにはいかないと、彼女を抱く腕に力を込める。
「貪欲だな、全く……!」
魔剣の動きを確認したレヴィエルが苦々しく吐き捨てた。双剣を交差させ反撃を受け止めたが、防ぎきれなかった傷が身に刻まれ、血が滴り落ちている。
赤黒い光は、彼女とカオスを包むように広がっている。シルフィールへの狙いはまだ外れていない。
リスティルの方はカオスの横に歩み寄り、弱っている相手に向けるには相応しからぬ口調で呼びかける。
「準備、できたわ。苦しいでしょうけど我慢なさい」
傍らにあるのは黒い霧。
リスティルは躊躇いなくカオスへと指を向けた。
すいと進んだ影が、彼の体に潜り込んだ。身体がびくりとはね、伸ばされていた手が空を掻く。
「ッあぁ!」
目が大きく見開かれ、抑えきれぬ声が迸った。咄嗟に机に掌をついたが、支えられなかった。椅子に身を収めることすらできず、床へと崩れ落ちる。
魔剣から毒々しい輝きが溢れた。変化の生じた獲物に食欲をそそられ、咆哮したかのように。
剣で深々と身を貫かれたような苦痛に襲われ、カオスの額に汗が浮かぶ。四肢が震え、唇も変色している。爪が床を引っ掻き、傷をつけた。
熱と悪寒が全身を襲う。脳に剣を差し込まれ、抉られるような痛みが続く。
尋常でない苦しみようを間近で目にしたシルフィールは、声も出せずにいる。ルナも、我が事のように顔をゆがめている。
リスティルは彼の体を動かし、魔法陣近くの床に仰向けに寝かせた。硬い感触も、今の彼は気にする余裕がない。
「調整が十分ではないけれど……貴方なら耐えられるでしょう?」
リスティルは、相手が聞いていなくとも囁きを送る。挑発し、駆り立てるように。
彼女の意図を悟ったレヴィエルが低い声で呟く。
「マクスウェルで補うのか」
リスティルの使い魔、マクスウェル。それには、存在から力を生み出す性質がある。
彼女は、力がさらなる力を呼ぶ流れ――無限増幅を作り出し、戦いにおいて活用した。
彼女の使った無限増幅そのままとはいかないが、カオスを対象として近い状態を作り出した。
「危険すぎませんか?」
声を上げたのはルナだった。
他者が直接力を分け与えようとしても、狂った魔剣のせいで効果が薄い。急速に失われる力を埋め合わせる方法は限られている。
それはルナもわかっているが、乱暴なやり方に口を開かずにはいられなかった。
マクスウェルは力を与える代わりに、宿主の身も心も壊しかねない。
リスティルは自身に使うため、カオスの助言によって研究を進めた。改良が施され、完成したとはいえ、危険なことに変わりは無い。
彼女が体内に入れた時は、己に合うよう綿密に調整していた。
今回、それはない。カオスに適合するよう研究や実験を行っている暇は無かった。
万全の状態ならば耐えきるだろうが、現在彼は激しく消耗している。アルハザードに喰われている最中にマクスウェルを寄生させるなど、刺激が強すぎる。
カオスの瞼は固く閉ざされ、唇から息が漏れる。
弱った体に入り込んだマクスウェルによって無理矢理力を高められ、それに呼応して膨大な力が流れ込み、肉体も魂も軋ませる。膨れ上がったそばから貪られ、内側を食い荒らされる感覚に責め苛まれる。人間どころか悪魔でも耐えがたい激痛だろう。
精神への影響も無視できない。アルハザードによって精神も削られているならば、本能を縛る鎖は砕け散るかもしれない。
「普通の相手なら、分が悪すぎる賭けね」
あっさりと認めたリスティルは、両手を広げて問いかける。
「でも、アイツがそれで終わる男だと思って?」
「……いや」
レヴィエルが短く答えると、リスティルは再びカオスに視線を向ける。
「衝動をこらえるのは、慣れているわよねぇ」
答えるどころではないカオスは、内部で吹き荒れる嵐に耐えている。
「この間に封印を?」
増幅と吸収を繰り返し、時間を稼ぐのか。そう問われたリスティルは、確信があるように否定した。
「いいえ。後は、待てばいい」
落ち着き払って答えたリスティルだが、美しい形の眉をひそめる。
(問題は……その先)
本人が絶望したままでは、根本的な解決にはならない。この場を切り抜けようと、危うさを抱えていることに変わりは無い。
リスティルは暗い予感を振り払い、抗う仲間を見据える。
彼女が今、できること。己が特性を活かし、なすべきこと。それは力を補い、心まで食い荒らされぬようにすることだ。
虚無を作る絶望も、活力を与える希望も、彼自身の心が無ければ生まれない。
唐突に、糸が切れたように体から力が抜けた。血の気の失せた顔から表情が消える。
相克に呑まれかけているようだ。
苦痛が色濃く浮かんでいた面は、今は静かだ。激突に意識が引きずられ、奥深くに沈み込んだかのように。
できることはないかと考えたレヴィエルの胸で、何かが存在を主張した。懐から取り出し、目を落とす。
(……『女神の涙』)
村の少女から託された装飾品。持つ者の心に感応し、輝く宝石が台座に埋め込まれている。
球体が帯びている魔力は、身と心に力を与える。死を遠ざける効果があり、カオスとの戦いでも役立った。
もしかすると、わずかながらも身を守るかもしれない。
ほんの少しでも助けになればいいと思いながら、胸の中央に乗せる。
「マスター……」
魔剣に身を捧げることを断念したシルフィールが、カオスのもとまでふらふらと歩く。
傍に膝をつき、軽く身を乗り出して主の眠っているような面に視線を落とす。
金色の瞳にじわりと水滴が盛り上がり、頬を滑っていく。
今は泣くべき時ではないとわかっている。苦しいのは彼の方だと思いながらも、感情が溢れ、止められなかった。
「どうか、マスターを」
助けて。
呼びかけたのは、この場にいない相手に対してだ。届くはずの無い祈りを、一心に捧げていた。
彼女の涙が一滴、主の目元に落ちた。シルフィールは慌てて己の目をこすり、拭おうと身を動かした。
その拍子に彼女の手が『女神の涙』に触れる。
刹那、宝石が鋭い輝きを発し、目を射た。
「……!?」
彼の中の混沌を反映したように、異様な眩さが弾ける。暴走と表現したくなる変貌だった。
球体にひびが入り、砕け散る。
さあっと風が吹き、淡い煌めきが立ち上った。
破片から放たれる光とアルハザードの波動が混ざり、融け合った色の霧が主従をつなぐ。
宝石と魔剣が共鳴するかのように震え、シルフィールの体から力が抜けた。彼女の変化を目敏く察したルナが駆け寄ったが、不思議なことに苦痛の色は薄い。
その場にいた者は息を呑んだ。
カオスの口が笑みを形作ったのだから。よく見なければ気づかないほど微かだが、確かに。
周囲が見守る中、顔に落ちた雫が流れた。
光の奔流がおさまった。
静寂とともに時が流れ、顔色が戻ってきた。安定した呼吸が聞こえてくる。
危機は脱したと知って、ルナとシルフィールが大きく息を吐いた。
リスティルは脈動の止まった魔剣に目をやり、満足げに頷く。
「さすがに満腹になったわね」
ただ倒すだけでは復活する悪魔を、殺すとされる魔剣。「殺し方」には幾つかの方法があり、アルハザードは刃に悪魔の魔力を収めるタイプだ。
膨大な容量を持つアルハザードは敵も使用者も喰らい続けてきたが、始祖までは腹に収めきれなかった。
尤も、あのままでは肉体が維持できるか否かの限界まで絞り尽くされただろう。疑似的な無限増幅を使用したことで、激しい衰弱に留まった。
代償は大きい。マクスウェルとアルハザードの対決が内側で行われた結果、体力を著しくすり減らした。
どちらか片方ならばともかく、両方に干渉された。それだけでなく、激しくぶつかり合ったのだ。悪魔だろうと、命を落とすか、発狂しかねない争いだった。
だが、マクスウェルを使っていなければ極限まで力を奪われ、蝕まれたはずだ。回復にも長い時間を要することになる。完全に精神を破壊されることは無くとも、大切な記憶を失ったかもしれない。
「ありがとうございました。リスティルさんがいたから……」
「本当に、何とお礼を言ったらいいのか」
ルナとシルフィールが感謝を込めた視線を向けると、リスティルは気にするなと言うようにひらひらと手を振った。
「アイツの助言もあってマクスウェルが完成したんだし」
用は済んだとばかりに身を翻した彼女は、レヴィエルに声をかける。
「目を覚ましたら一言言っておいてちょうだい。賢いのに馬鹿げた真似をする馬鹿に、ね」
レヴィエルが頷くと、リスティルは歩を進めていく。
もう少し留まっては、とルナが言いかけたところに、気負いのない呟きが聞こえてきた。
「また来るわ」
「リスティルさん……!」
ルナは顔を輝かせ、レヴィエルは口元を綻ばせた。
「今日来たのは、珍しいお茶を飲みたいと思っただけ。当てが外れたけれど」
背を向けたままの、彼女の表情は見えない。飄々とした声は本心を悟らせない。
「後でとびきりの一杯を振る舞ってもらうわぁ」
笑いを含んだ声を残し、リスティルは歩み去った。
カオスがベッドに戻され、しばし時間が経過した。
睫毛が震え、瞼の下から現れた翠色の瞳に、シルフィールが口元を震わせる。
数回の瞬きの後、彼は見守る人々に視線を向けた。枕元に椅子を用意して座っているのはシルフィールだ。レヴィエルは壁に背を預けて腕を組み、隣にルナが立っている。
「……厄介事に、巻き込んでしまいましたね」
「っ! 巻き込むだなんて」
「面倒事は、お互い慣れているだろう」
ルナは首を横に振り、レヴィエルはささやかな用事を片づけたかのように答える。
シルフィールは、言いたいことが言葉にならず、微かに口を開閉させた。彼女が話せずにいる間、レヴィエルが先に言っておこうと口を開く。
「馬鹿は死ななければ治らないと聞いたことがある」
全く関係ないことを言い出したレヴィエルに、カオスは面食らった。
「それが、何か?」
「一度死にかければ、少しはマシになったと期待したいところだ。愚者のままでも、な」
失礼な言い草にカオスは抗議しなかった。自覚があるからこそ、『愚者の日誌』を記した。自ら愚者と形容した生き方は、これからも変化することはないだろう。心の最も重要な位置を占めるものは、変わらない。
変わったとすれば、それがもたらす色彩だ。
上体を起こしたカオスは、面を上げた。少し眩しそうに手をかざしながらも、虚空に目を凝らす。光を確かめるかのように。
彼の姿を見、己の考えに確信を得たルナは、ゆっくりと言葉を口に出していく。
「目を覚ました貴方の眼に、感じました。今までにない――」
ルナの言葉にシルフィールも頷く。彼の心に巣食い、永久に消せないはずの何かが薄れている。
カオスは微笑を浮かべる。これまでとは性質の異なる笑みを。
「再会が、叶いました」
相手は誰か、問うまでもない。
幻と言えばそれまでだ。気力を取り戻し回復を早めるための、生存本能が作り上げた幻影。弱りきった体と心が生んだ、願望を反映した夢。
レヴィエル達は、ただの幻ではないと確信していた。
彼の中でアルハザードとマクスウェルが荒れ狂い、内側が徹底的に掻き乱された。
混沌とした世界でも失われず、嵐によって剥き出しにされた、強い想い。
彼は最も大切な相手を取り戻したいと願っている。一目でも会うことを求めている。彼女への想いは、どれほど年月が経とうと色褪せることはない。
彼の苦痛を和らげ、願いを叶えることを望んでいたシルフィールが『女神の涙』に触れた時、予期せぬ事態が起こった。
最高峰の魔剣と悪魔の力による極限の闘争は、宝石に影響を及ぼした。過剰と呼べるほどの反応を引き出し、通常では考えられぬ効果を発揮した。
二人の精神を感じ取った『女神の涙』が邂逅をもたらしたのだ。涙の働きによってアルハザードが壁を壊し、使い魔の中の彼女とつながった。それは数々の要素が複雑に絡み合った結果だろう。計算の上に成り立つ現象ではなかった。
体の持ち主は、記憶の残滓ではなく個として姿を現した。
使徒と化したルナの自我が片隅に残っていたように、感知できぬほど微細な欠片が散らばっていたのかもしれない。
何年もかけて少しずつつなぎ合わされたが、意識とも呼べぬ塊は奥底に沈み、深い深い眠りに就いていた。そのままでは形を取り戻すことも、目覚めることも、永久にあり得ないはずだった。
揺り動かしたのは、彼女を呼ぶ声。主従がつながった時、声が深奥まで届いた。
カオスの眼がシルフィールに向いた。彼女は頷き、己の胸に手を当てる。
「感じます。あの方の息づかいを」
中にいる者は再び眠りに就いたが、確かに息づいている。
二人は感じている。比喩ではなく事実として、生きていると。
カオスはレヴィエル達に顔を向け、はっきりと宣言した。
「もう……大丈夫です」
直接の邂逅は長くなかった。全ての憂いが消えたわけではない。
ようやく見えた光は淡く、いつ絶えてもおかしくない。あまりに小さな希望を、掴むことができるかどうかわからない。
心に沈みこんでいた暗い塊は、まだ残っている。
だが、永遠の眠りを望む気持ちは朝露のように消えた。抜け落ちたものを取り戻し、力を得た。顔を上げて歩むための。
再び吹き始めた風は、彼の心を高く、力強くはばたかせるだろう。
死を遠ざける宝石は、破滅を引き寄せる原因を拭い去った。
全てを喰らい尽くす魔剣は、越えられぬはずの境界を食いちぎり、彼の絶望さえも喰らった。
シルフィールの眼から涙が溢れた。
先ほどとは異なる感情から生まれた雫が、砕け散った宝石のように煌めく。
それを美しいと感じながら、彼は笑いかけたのだった。