使い魔が風邪を引くという、聞いたこともない事態が発生した。
寝込んだのはシルフィールだ。自我を持ち、極めて人間に近い体ゆえに起こった。
最初は、体に力が入らないのは気のせいだと言い聞かせて、いつも通り働こうとした。熱が上がり、足がふらつくようになって、認めないわけにはいかなくなった。
呪いならば解けばいい。原因の明確な病ならば、仙草で対処できる。
今回は風邪による熱だ。
過酷な労働を強いられたわけではない。特に変わった行動をしたわけでもない。普段通り規則正しい生活を送っていたはずだが、季節の変わり目なども影響して体調を崩したらしい。
予兆があれば、カオスが気づかぬはずが無い。弾みでなってしまったとしか言いようのない状況だった。
戦闘用に創られた使い魔ならば話は単純だ。身が傷つけば召喚を解除し、核を修復すれば済む。再び呼び出せば元通りになっている。
特殊な使い魔である彼女の場合、解除して回復というわけにはいかない。
普通の風邪だからこそ、仙草の効き目も薄い。しばらく休息する必要があった。
主のカオスはベッドの傍らに椅子を用意し、寝込んでいる使い魔を見つめる。
「シルフィール。貴方は辛い時、一人で抱え込んでしまう」
同じ言葉が当てはまる人物を、シルフィールは知っている。目の前で、彼女に労わるような視線を向けている。
「苦しい時は苦しいと、言うようにしてください。力になれるかもしれません」
温かな言葉に、シルフィールは目を細めた。
彼の言葉に嘘は無い。本心から言っているとわかる。
彼女が辛いと訴えれば、彼は解決のために動くだろう。彼女に発生する問題は、カオスならば大抵は対処できるはずだ。
(では……マスターは?)
肉体に異変は無くとも、精神は。
彼が苦しんでいる時は、誰に告げるのか。
シルフィールに対し、苦しければ吐き出すよう促す一方で、彼が深刻な相談をもちかけることはない。
主の過去や絶望を彼女は知っているが、事細かに説明されたわけではない。記憶の残滓や、相手の表情や言葉から垣間見えた断片をつなぎ合わせて、推察しただけだ。
シルフィールは小さく眉を寄せた。
彼女に打ち明けても心を沈ませるだけだと知っているから、内にしまっているのだろう。それが彼なりの配慮だとわかっていても、悲しかった。
自分には何もできないと思い知らされるのだから。
支えになると決めたのに、どちらが支えられているかわからない。
力になりたいと意気込んでも、どれほど実行に移せているか己に問えば、答えられない。
寄り添い支えられる位置にいるはずなのに、届かない。
彼の苦悩を傍で見つめるだけだ。
「シルフィール?」
カオスは、心ここにあらずといった様子の彼女を気遣わしげに見つめている。
視線に気づいたシルフィールは表情を改め、こくりと頷いた。
カオスは布団を被り直した使い魔に、生徒を諭す教師のような口調で指示する。
「大人しく寝ていなさい」
答える彼女もやはり、生徒のようだった。
「はい。じっとしています」
シルフィールは主の言葉に従い、手足を伸ばし、身動き一つせず横たわっている。言いつけを忠実に実行し、指一本動かそうとしない。置物になりきっているかのような姿を目にして、カオスは呆れつつ尋ねた。
「かえって疲れませんか?」
「……少し」
「動いてもかまいませんよ」
わずかに布団が動いたが、それだけだ。息を潜めるようにしてじっと身を横たえている。動かずにいれば、彼の眼に留まらなくなると信じているかのように。
主が意識を割いているのがいたたまれない。手間をかけさせたくないと思った彼女は、おずおずと口を開いた。
「あの。たいしたこと、ありませんから」
だから気にしないでほしいと目で訴えるが、聞き入れられるはずもない。
頬は紅潮し、呼吸も乱れている。視線は頼りなく揺れ、焦点も定まらない。そんな状態で言われても、説得力はまるで無かった。
「煩わせまいという気持ちは受け取っておきます。ですが、貴方は少し、遠慮が過ぎる」
「……申し訳、ありません」
言うべきことを言わず、困らせてしまった。そう考えてしゅんとしたシルフィールに、カオスは珍しい表情を覗かせた。どんな感情がこもっているか彼女が判別する前に、それは消えてしまった。
カオスは、叱るつもりでも、責めたかったのでもない。言いたかったのはもっと別のことだ。上手く伝えられなかった彼は目を伏せる。
シルフィールは、熱で朦朧としながらも舌を動かそうとする。
「我儘を言って、迷惑をかけてしまっては――」
考えを伝えようとする彼女を宥めつつ、彼は笑みを漏らした。
「貴方の我儘など、我儘の内には入りませんよ」
緑の瞳は、驚くほど穏やかだ。今の彼を見て、恐ろしい力を持つ悪魔だと考える者はいないだろう。
「もっと手をかけさせるくらいでちょうどいい。それ以上に――いえ、比べ物にならぬほど、貴方には助けられています」
シルフィールの顔がぱっと輝いた。自分の働きを認められるのは嬉しい。無力さを噛みしめたばかりだから、いっそう心が弾んだ。病人として寝ていなければ、身振りも交えて喜びを表現したかもしれない。
興奮を鎮めるように、カオスは掌を額に乗せた。
ひんやりとした手がシルフィールの肌に触れた。体温の違いを確かめるかのように、静止している。
四肢をもがれても死なない生物は、彼女を通して過去を見ている。
彼の眼に映っているのは、数年前の景色。炎に全身を呑み込まれ、命を失いゆく人間の姿が蘇っている。
火で焼かれれば絶命する人間と、たとえ溶岩に落ちようと生き延びる悪魔。
体調を崩すことは無く、常人ならば命を落とす傷もすぐに癒える。強力な呪いだろうと殺すには足りず、身を焼く熱もすぐに消えてしまう。
彷徨いかけた彼の意識は、小さな呟きに引き戻された。
「楽に、なりました」
彼女は言葉通り、日向ぼっこをする猫のように目を細めている。睡魔に襲われたのか、口調が鈍くなっている。
我に返ったカオスは目を瞬かせ、わずかに口角を上げる。
「それはよかった」
完全に瞼が閉ざされるのを見、カオスは息を吐いた。安堵が含まれた彼の声に、無邪気な言葉が返された。
「マスターの手。気持ちいい、ですから」
好意以外の何物も含まれていない声に、カオスからの返答は無い。
「もう少し……このまま……」
心の声が零れたのは、意識が夢と現の狭間でたゆたっていたからかもしれない。
眠りの世界に落ちかけている彼女は、主がどんな表情をしているのか、確認することはできなかった。
薄れゆく意識の中で、掌に魔力が集い、熱を帯びるのを感じる。暖かな波が、ゆっくりと体内に流れ込む。
何かに力を奪われたのではないから、魔力を分け与えても目覚ましい回復にはつながらない。
今回は体の働きを助け、回復を速める程度の効果しかない。
それでも、彼の心が嬉しかった。
(早く、よくなって――)
「今は休むことに集中するように。いいですね?」
内心を読んだかのようなカオスの言葉が内側に響く。
同時に、心身を消耗させる熱ではなく、心地よい温かさが全身に広がっていく。
(大好きです。マスター)
顔まで引き上げられている布団の中で、彼女は呟いた。