最初の記憶は、ただ一言の呼びかけだった。
「シルフィール」
風の精霊を意味する名。
初めて呼ばれた時、彼女の胸に温かいものがこみ上げた。
それに応じるように、心を込めて答えた。命を与えた主に報いるために。
「いかなる御用でしょうか。……マスター」
自分にできることならば何なりと。そう思いつつ答えると、彼女を作り出した魔導師カオスは笑みを浮かべた。
自ら生み出したとはいえ、自我を持つ、人間に近い使い魔だ。珍しい存在に興味なり困惑なり見せても不思議ではないが、彼女の主は何も言わなかった。動じることなく、わかっていたと言いたげな表情をしていた。
「シルフィール」
「はい」
最初はただ誇らしかった。呼ばれるたびに、主の意思に応えようと決意を新たにした。
別の感情を抱くようになったのは、いつの日か。
「……シルフィール」
「は――」
いつものように答えかけて、かろうじて声を飲み込む。
カオスは今、口を開かなかった。
ただの幻聴かと思ったが、湧き上がる感情が否定する。
主から詳しいことは語られていない。証拠も無い。残滓に過ぎない儚い記憶が心を刺激し、確信を抱くに至った。
聞こえたのは、過去の声。呼ばれたのは、己ではない。
意識も魂も別の相手だ。
全く同じ名前、同じ言葉に違う響きが宿っているように聞こえるのは、気のせいではないだろう。
「シルフィール?」
思索に耽る彼女の意識を、カオスの声が呼び戻した。「何でもありません」と呟いて、彼女は主の様子をそっと窺った。
蒼穹を見渡すカオスは無表情に近い。冷酷さを露にするでもなく、使い魔への気遣いを見せているわけでもない。
その面を見つめたシルフィールは、己を奮い立たせて口を開いた。
「ここに留まってもいいですか?」
彼女の前にあるのは、結界の媒介となる水晶だ。
六神結界を発動すれば、力ずくで進むことは不可能だ。カオスが奥に潜めば、彼の元まで辿りつくことはできない。
カオスを止めに来たレヴィエル達は、媒介を破壊しようとするだろう。
闇の結界の前で待っていれば、レヴィエル達と必ず会う形になる。彼女はそこで戦うつもりだった。
主はレヴィエル達が来ることを望んでいる。それを知っていても、譲れない。
「どうぞ」
使い魔が何をしようとしているか察していながら、カオスは止めようとしなかった。
指を鳴らして虚空からある物を呼び出し、掴む。
「貴方が持っていてください」
差し出された物を見たシルフィールは目を見開き、息を呑んだ。
渡されたのは一本の槍。
「彼女」の遺品。形見と呼ぶべき品だ。
いくら財宝を積まれようと、どれほど強力な武器を入手しようと、手放すことは絶対にないと信じていた。
シルフィールの得物は大剣だ。貸し与えたところで意味は無い。
それなのに預けようとするのは、もう彼が持っている必要は無いからだろう。
彼が勝てば、本来の所有者が持ったままとなる。
彼が負ければ――。
「マスター、それは……!」
反射的に断ろうとしたが、できなかった。彼の微笑が言葉を押し留めた。
「自由に使ってください」
シルフィールは震えをこらえながら受け取った。武骨で肉厚な刃の剣に比べれば遥かに軽いはずなのに、重く感じられた。
戦いに敗れ、計画を挫かれた彼が何をするつもりか、想像はつく。
世界を巻き込み滅ぼそうとしておきながら、元の生活に戻ることはできない。何事も無かったような顔をして、これまでと同じ日々を生きていくことなど、できはしない。
これからも永劫に続く時間が耐えがたいからこそ、彼は行動を起こしたのだから。
水晶の隣に槍を突き立て、周囲に目を向ける。
幾つもの墓が目に映り、シルフィールは黙祷した。
穏やかな風が髪を撫でるが、胸の暗雲は晴れない。
背後から坂を上る足音が響いた。
ゆっくりと振り返ると、予想した姿が目に入った。主の親友とその相棒が立っている。
シルフィールはそっと息を吐いた。
来てしまった。
戦わずに済むことを願いながらも、激突は絶対に避けられないと、心のどこかで悟っていた。
「シルフィールさん……」
ルナが戦いたくないと思っているのは表情や声音からも明らかだ。シルフィールもそれには同感だ。相手が大人しく引き下がれば、の話だが。
レヴィエルの方は、相方ほど動揺してはいない。立ち塞がる者は打ち倒して進むという強固な意志を目に宿している。
カオスが口にした目的が、レヴィエルを駆り立てる。
代わり映えのしない退屈な世界を憂い、嘆き、叩き壊す。
レヴィエルにも理解できる動機だ。もしかすると、この世の誰よりも共感できるかもしれない。ルナとの出会いが無ければ、自らの手で実行しようとした可能性すらある。
だが、カオスの拓いた世界を進む中で、少しずつ疑問が育っていった。
「世界の破滅。それだけが、奴の望みだと? ……馬鹿な」
何もない空間。
誰もいない世界。
そんなものを創り出したところで、カオスにとって何の意味もなさない。
その程度のことが、本人にわからぬはずがない。
先ほど述べた、全てに厭いたから――それだけの理由で壊すとは考えにくい。
「なのに、どうして。……シルフィールさんっ!」
「私が語ることはできませんよ。ルナ」
シルフィールの手が携行している剣へと伸びる。
レヴィエルの手が動き、双剣の柄にかけられる。
「ならば、カオスに訊くしかないな」
剣を抜き放ったレヴィエルに倣うように、シルフィールが大剣を正面に構える。
「ですが、ここは通せない。マスターと会わせるわけにはいきません」
退けない理由も、譲れない信念も双方にある。
この場で必要とされているのは、それを貫き通すための力だ。
それは、レヴィエル達二人にあって、シルフィールにはないはずだった。
戦闘力の高い皇帝型の始祖と、彼の力を最も濃く受け継いだ吸血鬼。対するシルフィールはただの使い魔だ。それも、戦闘に作られてはいない。一般人と大差ない実力しかない。
結果は見えている。
本人も、力の差は承知している。
「我が主から与えられたこの身、この魂に誓って。命に代えても」
鋭い眼光に呼応したように、彼女の全身から魔力が立ち上る。
わかりきっている結果を覆すため、彼女は躊躇いなく禁忌を犯した。
レヴィエルの顔色が変わり、ルナが息を呑む。
魔剣との契約を行ったためだ。
悪魔を滅ぼす力を持つ魔剣。その力は絶大だが、扱う代償も大きい。振るうだけで持ち主の身を削り命をすり減らす、危険な行為だ。
ましてや、彼女が手にしているのは最悪の魔剣アルハザードだ。血肉、記憶、魂、魔力、それら全てを喰らい尽くすまで止まらない。
存在の消滅が約束されたが、彼女にとって重要ではなかった。
先ほどまで静かに吹いていたのが嘘のように、風が荒れ狂う。
収束した風が鞭のごとく唸り、二人を薙ぎ払った。
大した傷は与えられないが、シルフィールは高く跳躍し、刃を振り下ろした。
二人は左右に跳び、生じた空間を大剣が両断した。厚い刃が大地に突き刺さり、豪快に引き裂いていく。
衝撃に足を取られそうになりながらも、すぐさま体勢を立て直す。
反撃にレヴィエルが疾走し、斬撃を繰り出そうとする。
波動がシルフィールの身から放たれた。
刃を叩きつけるが、甲高い音がして弾かれた。十分な力と速度を伴って放たれた一撃は、かすり傷をつけるにとどまった。
彼女の周囲に、不可視の障壁が展開されている。
「限定結界、か」
攻撃の威力を大幅に軽減してしまう結界だが、レヴィエルは落ち着いている。小さく唇が動き、詠唱を紡ぎ出す。
大気中の魔力が刃へと変換され、障壁を切り裂いた。
闇属性の初歩的な魔術、『闇の刃』。けして複雑な術式ではないが、限定結界を破壊するには十分だ。
結界を張る相手とも戦ってきた彼だからこそ、対処法は予測できる。大した条件も無く簡単に張れる結界ならば、壊すのも容易だ。
盾を失ったシルフィールの身に、影をも切り裂く一撃を浴びせる。
シルフィールはよろめいたが、その程度では倒れない。魔剣と契約し、力を高めている今の彼女は、兵器そのものだ。滅多なことでは壊れない。
空気中の水分が瞬時に凍りつくような冷気を纏わせつつ、大剣が振り下ろされた。レヴィエルが受け止めると、体をひねり、刃をずらし、下から振り上げる。
頬が抉られ、傷口すら凍てつく。口から吐き出された息も白く、淀みなく詠唱することは困難だ。魔術が使えなくなったのを見計らい、シルフィールは再び結界を張った。
レヴィエルは慌てることなくルナに視線を送る。
「……光よ!」
レヴィエルの目配せで意図を察し、ルナが即座に詠唱を開始した。光の剣が飛来し、十字を描いて突き刺さった。
結界が破れるタイミングを完全に読んでいたかのように、レヴィエルが攻めこむ。
白い肌に幾筋も紅い線が刻まれたが、シルフィールの眼光は揺るがない。
風の刃が走り回り、二人を怯ませる。
動きが停滞したところへさらなる風が集った。
牙と化した烈風が、獲物を穿ち、引き裂かんとする。無数の刃が、敵を塵と変えるべくあらゆる方向から襲いかかる。
烈風が鋭利な刃のごとく全身を切り刻んだ。飛び散った血が草を真紅に染めていく。
暴風に全身を抉られながらも、レヴィエルもルナも踏みとどまった。
シルフィールを見据えるレヴィエルの目が光った。
ぐらりとシルフィールの体が揺れた。
世界がゆがむような感覚とともに、体が異変を訴える。
毒が身を蝕んでいく。
蠱毒の邪眼。悪魔の眼が全身の力を奪う。
「あ……」
口から赤い血が溢れた。
動きが鈍った彼女へ紫電を纏った斬撃が閃き、身を抉る。
さらに血が吐き出され、胸元を赤く染めた。
苦痛の声が漏れそうになったが、噛み殺す。
己の聞く言葉は主にも届いている。
今、口にすべきは弱音ではない。
彼女は息を吸い、高らかに宣言した。
「喰らい尽くすものよ!」
求めるのは勝利。主の夢の実現のみ。そのために己の存在が消えようとかまわない。
彼女の意思に答えるように、アルハザードが震えた。
大剣を下から振り上げ、ルナを打ち上げ、上から叩きつける。一見乱暴だが、動きは鋭い。冷気とともに繰り出された攻撃は、雨のようにルナの身を冷やす。
衝撃に顔をゆがめた彼女の目に、異様な物体が映った。
「サモン・サーヴァント」
紅玉、瑠璃、翡翠の三色のクリスタルが、シルフィールを囲むように召喚された。一瞬魔法陣が浮かび、三角形の中心にいる彼女に力が注がれる。
これまでのように、魔術で限定結界を破ることは叶わない。
絶対に近い防御を手に入れたシルフィールは、さらなる魔術を唱えた。真空の刃が踊り狂い、二人を切り裂いていく。
風が止む気配は無かった。