ノクターンSS『Initialize=Finalize』
箱庭のごとき天空世界。
蒼穹に浮かぶ島々で動いているのは、強力な魔獣ばかりだ。森の奥に位置し、入り口も見えない世界に足を踏み入れる人間はいない。
目的があって訪れた者達も、動かなくなっている。
つい先ほどまで戦いが繰り広げられていた空中庭園の一角は、今は静まり返っている。
倒れている者達は皆血まみれだ。
特に酷いのは、二刀を握りしめたままの剣士と、杖を手にした魔導師。残る三人の女達も激闘の証を身に刻んでいた。
時間が停止したかのような静寂が、どれほど続いたかわからない。
黒い影が緩慢な動作で身を起こす。
黒いローブも深緑のマントも切り裂かれ、焼け焦げ、血に汚れている。立ち上がる力などどこにも残されていないと誰もが思うような有様だが、杖を支えに立つ。
彼が立ち上がることができたのは、必然ではなく偶然に近い。力を残して勝てるような戦いではなく、常に被っていた余裕の仮面は剥がれている。
傍らで倒れている相手に目を向ける。
銀髪の女は息も絶え絶えだ。喋る力もなく、微かに開いた口から血を流している。
男は疲れたような表情を浮かべるだけで、傷の状態を確認しようとはしなかった。
もはややるべきことは一つしか残されていない。
彼を止める者はいない。
何も残されていない男は、力を振り絞り、紅く輝く杖を構える。陣を発動させるために。
混沌の名を持つ魔導師が詠唱を開始する。
「時空流離の、八神結界」
宣言に呼応して、魔力が高まる。
無限に広がる蒼穹が、暗く塗り替えられていく。
「全てに滅びを。始まりという名の終わりを」
何かがぐるぐると廻る感覚に、膝が折れかけた。踏みとどまり、最後の段階に向けて準備を整える。
霞む視界に過ぎ去った光景がよぎる。
もう少しで取り戻せるはずの幻が映る。
混沌の賢者として人々と関わっていた日々。
あらゆるものが鮮やかに感じられた時間。
彼女のいる世界。
彼が望めば、さらに多くの物語の結末を書きかえることも可能だ。
数万の人間を殺めた友は誰も殺さず、吸血鬼も生まず。村娘は人のまま旅の医者として世界を巡る。
深淵型の祖は感染者を出さず、吸血鬼を憎悪する剣士も家族と生きていく。
疑いようのないハッピーエンドだ。
(……本当に?)
計画を根底から覆す疑問を、彼は振り払おうとはしなかった。
何度も何度も己に問い、ずっと心に留まってきた疑問なのだから。
個人の望みに周囲を巻き込み破滅に導くなど、覇王と同じではないか。
自分達の戦いを無駄にしないために命を捧げた、彼女の意思に背くことになるのではないか。
彼女と積み重ねてきたものも、共に歩んだ道程も、否定することになるのでは。
数え切れぬほど繰り返した問いも、進行を止めることはできない。
答えがとうにわかっていても、止まれない。
あと一言で結界が発動する。
楽園のごとき穏やかなこの世界は完全に崩壊し、時の狭間に落ちて行くだろう。
終わりから始まりへ。始まりから終わりへ。
最後の一声がなかなか出ない。
胸の中の消えない炎に駆り立てられ、計画を進めてきた。
最後の瞬間、押しとどめようとしているのも同じものだ。
ただ一つの想いが、己の背中を押すと同時に、引き止めている。
「……っ!」
声は己の耳にも届かなかった。
いつ口にしたのかわからない、転がり落ちたかのような言葉に応じて崩壊が始まる。
世界が、全てが、分解されていく。
急激な脱力感に、今立っているのかどうかも定かではない。
あらゆる感覚が、時間が狂う。
始まりへ向かっているのか、終わりへ突き進んでいるのかも判断がつかない。
己と世界との境界が曖昧になる中で、意識は消えない。
肉体という檻が粉々に砕けようと、魂が枯れ果てようと、決して忘れないと誓った想いが自我を保たせている。
どれほど時が経過したのかわからない。
空間が再び組み上げられていく。
望んだ通りの世界が完璧に構成されてゆく。
とてもとても美しい、夢に描いた光景が。
(……違う)
何も欠けたものが無いからこそ、気づいてしまった。
これはただの幻だ。
「レヴィエル……!」
呻くような声を向けられた相手は黒衣の剣士だ。真紅の両眼を光らせ、静かに見返す。
夢幻の魔眼。
夢の世界に引きずり込み、動きを封じる。
力を奪ったのは闇属性の魔術だろう。
計画達成を前にして一瞬生じた気の緩みを魔眼で拡大し、行動が阻害されている間に力を吸収した。
強引に奪い取った力をもって、戦うための糧と為す。
「諦めはしないのですね」
あと少しというところで邪魔が入ったのに、カオスの面には静かな笑みがあった。
二人の悪魔が対峙する。
カオスが立っている理由。
レヴィエルが立ち上がった理由。
どちらも同じだ。
ルナの指が動き、リスティルが顔をゆがめながらも身を動かす。
シルフィールも大剣を握り直した。
今にも全てが崩れそうな中で、彼らは戦いを再開した。