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ひよこの足跡ブログ

漫画やゲームなどの感想を書いています。 ネタバレが含まれることもありますので、ご注意ください。

The Final Cross

ノクターンSS『The Final Cross』



 アルギズの森の一角から異質な空気が立ち上った。
 フェオの大樹跡から通じる道の先に展開されているのは、混沌の魔導師が生み出した世界。空中に浮かぶ島を橋でつなぎ合わせた領域は、時を忘れ見入るほど現実離れしていた。
 空中庭園の眼下に広がるのは、澄んだ青と柔らかな白。
 世界をより鮮やかに魅せる光景の中で、二組の男女が向かい合っていた。
 黒く長い髪を腰まで伸ばした青年と、栗色の髪に蒼穹の瞳の娘。金髪で眼鏡をかけている若者と、後ろに控える白銀の髪の女性。
 刻の墓所と名付けられた場所で対峙する彼らの表情は、それぞれ異なっていた。睨みつけるように真剣な眼差しを注ぐ者。戸惑いをにじませながらも立ち向かう決意を固めている者。穏やかに微笑む者と、気遣わしげに見守る者。
 世界をかけて戦おうとしているとは思えぬ平静な顔で、この世界の主が口を開く。
「始めましょう、レヴィエル。極限の闘争を」
「カオス……!」
 レヴィエルは道を分かった友の名を呼ぶが、カオスは微笑をもって応えるのみ。
 己に刃を向ける同胞を前にして、精神は高揚している。緊張や警戒を凌駕する興奮が身を焦がしている。
「私は……どこかで、この時を待っていたのかもしれない」
 戦闘のための道具として作られ、戦いを渇望する衝動が確かに在る。時折激しく存在を主張し、獲物を狩れと訴える。
 その声に従えば一時でも愉悦を味わえると知っていながら、彼は身を任せはしなかった。何千年もの間、内に巣食う死神を抑え込み、生きてきた。どれほど血が恋しくなる夜も、渇きをひたすら押し殺してきた。
 今ようやく、解き放つことができる。
(ああ、本当に)
 体を構成する魔力が歓喜に震えている。
 戦闘のために造られたこの身が虚しいと嘆きながら、死闘の予兆に興奮している彼がいる。体の奥で渦巻くどす黒い奔流を感じ、殺戮兵器なのだと思い知らされる。
 血を浴び肉を裂く、限界を超えた闘争を。死を知らぬ者達による、死の舞踏を。魂が求めている。
 己の中の獣が咆哮を上げるのを自覚しながらも、カオスは笑った。何のために戦うのか、先に待つものは何か――それを見失うことはない。
 熱に浮かされたようになっているのはあくまで心の一部。本能に衝き動かされる己をも冷めた目で観察しながら、カオスは敵を睥睨する。
「私が、この手で。殺して差し上げます」
 原初の樹より作られた杖を握り、混沌の名を持つ魔導師は宣言した。

 戦闘が始まるやいなや、ルナが詠唱を始めた。その間にレヴィエルは身を沈め、二刀を繰り出そうとしている。
 互いの意図を確認する必要すらない、息の合った動き。相手の心を読み取っているかのような連携にもカオスは動じない。
「在るべきものを在るべき姿に。イニシャライズ」
 レヴィエルは目を見開いた。確かに剣を抜き放ち、走り出そうとしていたはずなのに、柄に手をかけた体勢で留まっている。
 ルナの詠唱も破壊された。紡ぎ上げられた魔力は霧散し、詠唱前の状態に戻っている。
「刻を操る、魔術……!」
「驚くには早いですよ、レヴィエル」
 無造作に杖を振るい、カオスは魔術を叩きつける。煌びやかな光が斧の形をとり、幾枚もの刃でレヴィエルを切り裂いた。
 それなりの時間詠唱が必要な魔術も、カオスの手にかかれば初歩の術のように素早く放てる。
 内まで照らされ焼かれるかのような感覚にレヴィエルが顔をゆがめた。
 ルナが治療を施すより先に、カオスの矛先が彼女に向く。高速で飛来した冷気が上方から射抜き、動きを止めた。
 レヴィエルが舌打ちし、ルナは苦痛を面に浮かべながらも神術を使い、傷を癒す。
 この世に存在する物には、全て属性がある。それを利用すれば、魔物だろうと悪魔だろうと効率よく倒すことが可能だ。光属性の魔術はレヴィエルにとって、冷属性はルナにとって脅威となる。
「でも、それなら」
 ルナの視線にレヴィエルが頷く。
 属性を見極めた攻撃がよく効く――それはカオスとて例外ではない。
「奴は闇の技に弱い」
 抑えた声で告げたレヴィエルが詠唱を開始する。その間ルナは槍を手に疾走し、鋭い突きを繰り出した。容易く躱されるが、それも予想の上。レヴィエルが詠唱する時間を稼げばいい。
 ルナが飛び退ると同時に、黒い渦がカオスの体を呑み込んだ。巻き起こる奔流に滅多打ちにされ、金色の髪が揺れ、緑のマントがはためく。
 大抵の魔獣がなすすべなく葬られる闇属性の魔術。一撃で倒されることは無くとも、相当な痛手を与えたはずだ。
 渦が消えた時、カオスは常と変らぬ笑みを漂わせていた。
「やれやれ。私も甘く見られたものだ」
 二人の驚愕が心外だと言いたげに、冷ややかな光を翡翠色の双眸に宿す。
「弱点を知られていながら、何の手も打たずにいるとでも?」
 カオスは全ての属性の魔術を高いレベルで行使することができる。
 それだけにとどまらず、魔術を極めた男は、己の属性さえも変えることを可能とした。現在の弱点を探り当てたとしても、すぐに変えてしまうだろう。

 カオスが詠唱を開始した。
「刻よ。不可能を可能に変える元素よ」
 己の勝利を確実なものにするために、着々と準備を整えていく。
 黄金と純白、二色の光がカオスの全身を包み、帯のようにたなびく。
 レヴィエルが詠唱を妨害しようと真空の刃を飛ばすが、止まらない。高密度の魔力は幕のように彼の身を覆い、詠唱破棄を許さない。
 今まで誰も目にしたことのない――おそらくはこれから先も、使える者の現れない魔術の予兆。空気がうねるのを感じ、二人が息を呑んだ。
「災禍を封じた箱に唯一残されしもの。紛い物なれど、その片鱗を我が手に。予知という名の災厄――未来を知る絶望を、我が力に」
 禍いをもたらす箱に残されていたという、未来を知る力。人が得れば絶望し、歩みを止めてしまうであろう能力。
 知と技を研磨してきた魔導師は、完全ではなくとも会得し、行使しようとしている。
「運命を詠み。悲劇を逃れ。結末を変えるために」
 時間が、空間が、ねじれゆがむ。不可視の歯車に組み込まれたような感覚が二人の体を締めつける。
 カオスは他の始祖でも考えが及ばなかった未知の属性を発見し、従えることに成功した。
 いかに魔術の才覚があろうと、何の過程も無く未知の属性に辿りつけはしない。
 全てはただ一つの目的のため。
 元々知識を吸収し、技術を磨くのは性に合っていた。己より知識の劣る人間が書いた魔導書も、好んで読み耽っていた。
 ただの趣味が研究に変わったのが数年前。奇抜な発想の中に望みを叶える手がかりは無いかと必死に探した。
 その成果がレヴィエル達へと牙を剥く。
「ラプラスの悪魔(Laplace's demon)」
 空気が塗り替えられた。
 周囲に展開されたのは異空間とも呼べる光景だった。複数の魔法陣が広がり、その上に彼らは立っている。円と線が組み合わされた陣には細かい文字や記号が浮かび上がり、紫の光を放っている。
 薄暗い空間に浮かぶのは黄金の歯車。幾枚ものそれはゆっくりと回転し、この場にいる者の運命を刻んでいるかのようだ。
 恐ろしい攻撃が襲いかかってくると思ったルナだが、予想に反してその身に異変は生じない。レヴィエルにも変化は見られない。
 互いの無事を感じ取った二人は、これ以上カオスが手を打つ前に攻勢に移った。
 レヴィエルの二刀が空を切った。ルナの魔術による光が虚空へ吸い込まれた。
 あり得ない、現象だった。
 カオスは極めて高い力量を持つが、あくまで魔導師だ。詠唱の暇も与えず接近戦に持ち込み、畳みかければ対処は追いつかない。一筋縄ではいかぬだろうが、倒すための道ははっきりと見えている。そう思っていた。
 今、二人が同時に攻めかかっても届かない。
 完全に動きを読み、余裕をもって躱し続ける。

 動揺を嘲笑うかのように、カオスは端正な面差しに余裕すら漂わせている。
 今張った結界こそが最大の切り札だった。
 カオスの魔力では、レヴィエルの無尽蔵の魔力には届かない。いくら力を高めても正面から戦えば苦戦は免れないだろう。レヴィエルを支える少女がいるならば、なおさらだ。
 己の弱点も敵の強さも知悉している彼だからこそ、差を覆すことのできる手段を用意していた。
 現在の状態を完璧に把握し、計算から未来を導き出す結界術。
 優れた頭脳を持ち、刻の属性をも操る彼だからこそ、唯一行使することができる技だ。
「完全に読まれているのか?」
「躱し方が、今までとは全然……!」
「未来を知り、いかなる悲劇も回避する。そのためにこの結界は存在しているのですから」
 相手の全てを知り、正確に描き出す。降りかかる災厄を予測し、確実に防ぐ。それを強く望む心が『ラプラスの悪魔』を生み出した。
「己の無力さを知らぬ者が、真の強さを得られるはずもない。貴方には破れませんよ、レヴィエル」
 生まれながらにして最強の力を持つ男は、戦況を逆転させるためにあがく経験が絶対的に不足している。己を上回っている相手を倒すため死力を尽くす――そんな戦いは一度も無かった。
 特異な能力を用いて近い領域に這い上がった者もいたが、あくまで彼女は挑戦者だ。追い込まれたが、恵まれた力をぶつけて勝利した。
 今、攻撃が通じぬ状況を作り出され、手が見つからずにいる。
 恐ろしいほどの膂力を伴い繰り出される剣風も、軽やかに滑る槍の穂先も、カオスの身に触れることすらできない。
 二人の抵抗を見つめる彼の面には、苦笑に近い影がちらついている。
「言ったはずですよ。驚くには早いと」
 杖を持ち上げるようにして構え、カオスは息を吸い込んだ。意識を研ぎ澄まし、緻密な術式を一瞬で瞼の裏に描き、構成に従って魔力を練り上げていく。
 混沌の名を持つ魔導師が時間を支配する。
「刻の崩壊――クロックオーバー!」
 彼の眼に映る世界の姿が一変する。
 彼の、彼だけが知覚できる世界の中に、何人たりとも入ることはできない。
 二人の感覚が追いついたのは、光の魔術が放たれてからだった。
「クラウ・ソラス」
 高速で翔ける光の線が縦横に組み合わされ、十字を形成する。白く輝く波紋が広がり、辺りを照らした。
 それらを防いだと思いきや、続く呟きにレヴィエル達は目を見開いた。
「レーヴァテイン」
 目にするだけで焼き尽くされそうな圧倒的な熱。高温の炎が数え切れぬほどの杭となって交差する。
 全方向からの火炎に顔をゆがめた二人は、半ば無意識に防御の態勢を取った。
「カラドボルグ」
 予感は的中した。青白い雷光が幾度も閃き、巨大な剣となって突き刺さる。視界を染め上げる稲妻は、防御に回っても身体を痺れさせる威力を備えている。
 いずれの魔術も、神話や伝説に登場する武器の名に相応しい力だった。
 上位魔術の詠唱を大幅に短縮し、続けざまに放ってくる彼に、まともに対抗することはできない。
 凄まじい連撃に、戦意を根こそぎ刈り取られても不思議はなかった。

 カオスは笑みを消し、二人を見つめる。
 彼らは屈しない。倒れない。
 攻撃が通じない絶望的な状況で、意思の炎を燃え立たせて向かってくる。
 ルナがレヴィエルに掌を向けると、陽光のように温かな光が迸った。瞬時に彼の傷を癒した後、己にも治癒力を促進する神術を施す。
 レヴィエルが剣を握り直し、低く呟く。
「……確かに、貴様の言う通りだ」
 己より力の劣る相手としか戦ったことが無い。暴虐とも呼べる力を振るい、格下の相手を蹴散らして君臨してきた。
「だが。私の道程を知らぬ貴様ではないだろう」
 幾千幾万の人間の命を奪った魔王。
 血塗られた悪魔達の頂点に立つ男。
 積み重ねてきた戦いの数は、この世に生きる者の中で最も多い。
 無数の命を踏みにじり、屍の上に培われた力と技。それらを結集すれば破れぬ結界ではない。
「結界は完璧に近くとも、術者はそうもいくまい。殺戮兵器から最も遠いお前では、な」
 カオスは身を投じた戦闘の回数が始祖の中で最も少ない。その彼がここまで対処できただけでも驚嘆に値するだろう。常人ならば、未来が見えても何もできず、絶望するだけだ。結界を展開してからの身ごなしだけで、怠惰や怯懦ゆえに戦闘を避けてきたわけではないと証明している。詠唱の速さ一つとっても、研鑽を怠ってはいないと物語っている。
 だが、レヴィエルはその上を行く。
 高位の悪魔をも、ただの人間同様に捻り潰してきた。人間が災害に対抗できぬように、闇の眷属であろうと悪夢の化身に太刀打ちできなかった。先を知ろうと知るまいと、変えられぬ結末を与え続けてきた。

 カオスの脳裏にレヴィエルが斬りこむ光景が映る。それに従い身を動かすより速く、レヴィエルが距離を詰めた。
 気づけば、カオスの体は空中に浮き上がっていた。地を蹴った音さえ遅れて聞こえてきた。
 およそ生物の限界を超えた動きから生み出されたのは、花弁のように幾重にも合わさった斬撃の嵐。
「十六夜散華!」
 空中とは思えぬ鋭さで刃が翻り、金の線で彩られた黒衣を、その下の皮膚を裂いていく。
 溢れた血が花弁のように舞い落ち、地を紅く彩った。
 レヴィエルと入れ替わるようにして、ルナが槍を手に跳躍する。
 狙い過たず放たれたのは『射手座(サジタリウス)の焔』。
 ルナは空高く跳び上がり、星の力を借りて降下する。光を纏いつつ撃ちこまれた槍術が、後退しようとした彼の肩から腹まで切り裂いた。
 彼女の戦闘技能はレヴィエルには届かないが、攻撃を受けて動きが鈍っている隙にぶつけてきた。
 来るとわかっていても躱しきれない攻撃を叩きこむ。言うのは簡単だが、実行は難しい。
(やはり彼らは侮れない)
 二人の力を噛みしめながらも、カオスの面に焦りの色は無い。杖を振るう動作にも淀みは無い。
「ティルフュング」
 持ち主に破滅をもたらす剣の名が告げられた。
 闇が複数の輪となって獲物の身を締めつけ、砕く。続いて紫紺の槍がルナの体に突き立てられた。
「どうしました? これで破ったつもりですか」
 彼の優位は揺るがない。
 反応を超える必殺の技も、簡単に繰り出せるわけではない。
 制限が無ければ最初から使えばいい。連発すればすぐに片が付くだろう。
 それが不可能だからこそ、レヴィエルもルナも追撃を出せずにいる。
 予測しても対処が追いつかないほどの技を放つには、幾つかの条件がある。戦いの中で少しずつ、それに向けての力を蓄えねばならない。直前に意識を集中させる必要があり、肉体への負荷もある。
 次に出せるようになるまでは、一方的な攻撃に晒される。
 カオスにとっては、大技をくらっても、それを上回る痛手を負わせればいいだけの話だ。技の威力のみを比べればレヴィエル達が上を行くが、手数が違う。上位の魔術と短い詠唱の魔術双方を組み合わせれば、与えられるダメージはカオスが大きく上回るだろう。
「貴方達の駒は限られている。これほど読みやすい状況も無い」
 いかに強力な駒でも、単体で王を討つことは極めて難しい。逆に個々の性能の低い駒でも、連携して用いれば王を追い詰めることができる。
 チェックメイトへの道筋を描いたカオスが息を呑む。
 鮮やかな赤が視界に飛び込んだ。
 身を焼かれる苦痛に、己の展望が砕かれたことを知る。
 レヴィエルとルナの面も驚愕に染まった。
 もう一人の同胞、始祖の内の一体――リスティルが、炎とともに現れたのだから。

 燃えるような髪の持ち主が青い衣を翻し、黒衣の青年の傍に立つ。
 手にしているのは毒々しいほどに赤い鎌。刀身には金色の線が走り、楕円形の宝玉が埋め込まれている。無から生み出された、リスティル専用の得物だ。
 悪戯っぽく笑む表情は、カオスの結界を脅威と見ていないことがわかる。一度は敗れたが、大人しく引き下がる性格ではない。
「淑女の扱いが、なっていないのではなくて?」
 軽く語る口調は、殺されかけた相手に向けているとは思えない。彼らの間柄ならばそれも当然と言えた。リスティルはレヴィエルを殺そうと追い続け、レヴィエルもカオスに挑発されて斬りかかったことがある。命の奪い合いをしながらも、恨んだり憎んだりはしない。
 艶然と微笑まれても、カオスも落ち着いた物腰を崩さない。
「レヴィエルよりは紳士的なつもりなんですが、ね」
「そう? じゃあ一曲踊ってもらおうかしら」
 リスティルが軽やかに地を蹴ると紅の髪が舞った。
 カオスの目が、動きを見逃すまいと細められる。
 飛来する氷の矢を柄で防ぎつつ、リスティルは大きく腕を振るう。
 唸りを立てて空を裂く刃を、カオスは顔を傾けるようにして躱した。後退して喉元への蹴撃を避ける。
 結界の効果は含まれていない。単純に己の反射神経と身体能力を頼りに回避している。それでは、鎌と肉体を武器とし、織り交ぜて攻撃する彼女から逃れることはできない。距離を詰められては、格闘術の餌食となるほかない。
 リスティルのつま先が鳩尾に突き刺さった。
 息が詰まり、身が折れる。外見は妙齢の美女でも、膂力は常人には出せぬものだ。高みを目指す中で培われた技術と合わさり、ただの蹴りを凶器に跳ね上げる。
 よろめいた彼の顎を肘が正確に捉え、鈍い音を響かせる。
「ぐっ……!」
 脳が揺れ、意識が飛びかける。
 それを引き戻したのは背後の使い魔の声だ。
「マスター!」
 閃きに反応できたのは僥倖と呼ぶしかない。
 心臓を狙った刃をかろうじて杖で受け流し、距離を取る。
 『ラプラスの悪魔』は、リスティルが現れた今となっては何の効力も持たない。
 結界によって得られるのは、完全な予知ではなく、予測に過ぎない。
 現在の状態を把握し演算を行うのだから、不確定要素を生み出す彼女が来れば何の役にも立たない。
 この事態を防ぐため、分断して葬ろうとした。己の領域内で、幾重にも罠を用意し、陥れ追い詰めておきながら、仕留めそこなった。それは紛れもなく彼の甘さだ。
 いくら冷静に思考を巡らせても、何度式を組み立て直しても、導き出される答えは一つしかない。
 三対一。
 うち二人は自分と同等――否、真っ向から戦えば敵わない始祖二人。残る一人も他の二人に迫る力の持ち主だ。
 最大の切り札も破られ、もはや一方的な展開にしかならない。
 どれほど緻密な計算だろうと瞬時に終える頭脳も、逆転の道を示すことはできない。
 不完全とはいえ未来を知るほどの力があるからこそ、限界も正確に見えている。結末が見えていながら、変えられない絶望を知っている。

 引き下がるという選択肢は彼には無かった。
「我が眼を見よ」
 凛とした声が空気を震わせ、翡翠の眼が強く輝いた。彼の眼と三人の視線が絡み合い、ルナの面から表情が消える。
 己の体から魂を抜き取られたような、半身を持っていかれたかのような脱力感をルナが覚えたのも一瞬のこと。
 邪眼が彼女の精神を闇に沈めた。
 人間や下級の悪魔ならば即座に命を奪われる。不死者といえど、まともに浴びればしばらくは動けない。
「しっかりなさい」
 リスティルが叱咤し、神術で意識を呼び戻した。短く礼を述べたルナにそっけなく応じ、戦闘態勢をとる。
 レンズの隙間から片目を指で押さえているカオスを目指し、レヴィエルが走り込んだ。邪眼を行使して生じた隙に、死角から舞うように斬りかかる。
 己の影さえも斬られたと錯覚する攻撃に、カオスの腕に赤い線が刻まれる。鋭い痛みが走ったが、杖は落とさない。転移して距離を取り、詠唱する。
「湖の乙女よ、この剣受け取り給え。……コールブランド」
 水面に雫が落ちるかのような、静謐さを湛えた魔術。
 飛沫が弾け、舌の根までも凍りつきそうな冷気がルナの肌を刺した。
 ルナの行動を制限したカオスは、リスティルへと目を向ける。
「混沌の時代に戻らぬための番人よ」
 カオスの全身に纏わりつく緑の粒子を見、己を狙っていると判断したリスティルが鎌を握り直した刹那、大気が震えた。
「ストームブリンガー!」
 法によって鍛えられた、混沌の力を持つ剣の名を叫ぶ。
 風の属性を持つこの魔術は、他の魔術よりも熟練度が上だった。目的を達成するために、風の属性はいっそう熟知しなければならなかったのだから。
 高速で飛来する風が巨大な槍と化し、リスティルの身を貫いた。カオスの眼が光り、さらなる魔術へと派生する。傷口から引き裂かれる激痛に襲われ、艶やかな相貌がゆがんだ。
「ぐぅ……っ!」
 防御しようとしたリスティルだが、完全には間に合わなかった。この魔術の詠唱は、規模と威力に反し、予想より遥かに速かった。
 苦しげな声を噛み殺すことができず、彼女は膝をつく。
 追撃を加えようとしたカオスがわずかに目を見開いた。
 彼女の眼から炎は消えていない。
 白い大腿にも裂傷が刻み込まれているが、傷ついた足で地を蹴る。
 不死鳥の形をとった炎の化身が一直線に突き進み、下方から上方へ鎌を振り上げ、渾身の一撃を叩きこむ。
 天を舞う鳳凰の姿は、息を呑むほどに美しかった。
 胴に深々と鎌を突き立てられ、カオスの口から紅い液体が溢れた。傷口を炙るのは彼女の属性たる激しい炎。
 リスティルも今の一撃で消耗し、膝をついたが、強い光を目に宿したまま立ち上がる。

 刃を抜かれ、カオスの体がずるりと傾いだ。
 脳が灼熱に支配されたのも長い時間ではなかった。
 体中の感覚が鈍い。熱も、痛みすらも遠ざかっている。
 再生能力が高くても、すでに幾度も深い傷を負っている。酷使したため回復する速度が低下していた。
「カオス。もう戦いはやめるんだ」
 レヴィエルは、優勢に立っているとは思えないほど沈痛な面持ちだ。
 今までこのような眼差しを浴びた経験など、カオスには無かった。極力戦闘を避け、戦う際は策を練り、確実に勝利を手にしてきた。敗者への哀れみを向けられるのは初めてだ。
 いつの間にか杖で体を支えていることに、ようやく気づく。立っているのもやっとの状態になるのは極めて珍しく、頭の片隅で自身を観察する彼がいる。
「……ません」
 苦痛に彩られた声は不明瞭だったが、三人には伝わった。リスティルは理解できないと言いたげに眉を寄せ、ルナは顔を曇らせ、レヴィエルは一度瞼を閉ざす。
「これで、終わりだ」
 二刀を回転させ、構える。
 刃が迫る最中も、カオスの頭脳は淀みなく回転し、攻撃を解析していた。
 必殺の剣技ではない。命をとるつもりはないとわかる、立つ力を奪うだけの攻撃。
 加減されていると知っても、何故か怒りは湧かなかった。
(貴方は、本当に……)
 ほんの一週間前までのレヴィエルならば、そんな行動はとらなかった。立ちはだかった敵は躊躇せず斬り捨てていた。
 威力を抑えた攻撃も、今の自分では躱せない。
 半ば諦めていた彼の眼に白い輝きが映った。鳴り響く金属音に、頼りなく揺れていた意識が覚醒する。
 前に立つのは、己が生み出した使い魔の姿。
 魔剣を使った反動が治まったばかりだというのに、再び剣を取り、躊躇わず飛び込んできた。今までほとんど声を上げなかったのも、一刻も早く体力を回復させるため。
「シルフィールッ!」
 下がるよう命じても、彼女は聞き入れない。
 今まで従順すぎるほど忠実に仕えてきた彼女が、初めて主の意思に背いてでも戦おうとしている。
 シルフィールは求めている。彼が、戦えと命じることを。
 今も悪魔殺しの魔剣は精神と肉体を蝕んでいる。苦しくないはずがないのに、彼女は明るく笑っている。
 カオスの指が動いた。唇が再び動き、詠唱を紡ぎ出す。
 使い魔が、生きていた証すらなくなることも覚悟の上で、身を捧げようとしている。かつて守ろうとした、親しい相手を敵に回してでも戦い抜こうとしている。
 主たる己が挫けているわけにはいかない。
 金色の糸が二人を結ぶように伸び、眩い魔法陣を織り上げる。
「貴方の命は私のものだ。戦い、そして勝ちなさい。私の望みを叶えるために」
 冷酷な宣言に、シルフィールは心から微笑んだ。
「……ありがとうございます、マスター。全て貴方の仰せのままに」
 寄り添うように立った二人の視線が絡み合い、すぐに外れ、前方を向く。
 互いにずっと、距離を感じていた。カオスの方は、愛する者の代わりとして作っておきながら満足できず、彼女を苦しませている負い目がある。シルフィールは、作られた目的を果たせず、彼の心の穴を埋めようとしても叶わず、無力さに打ちひしがれていた。
 最も近くにいるはずの二人は異なる方向を向き、踏み込めずにいた。
 ようやく、境界を越えて共に進むことができる。
 たとえその先に破滅が待っていても。

 レヴィエル達の表情は険しい。カオス一人ならばいくら技量が優れているとはいえ、魔導師だ。遠近両方の攻撃に長けた悪魔が揃っているのだから、『ラプラスの悪魔』が無効化されれば結果は見えていた。
 だが、詠唱を守り壁となる戦士がいれば、状況は大きく変わる。
 空中に跳び上がったシルフィールは、身ごなしも軽く回転しつつ落下する。肉厚の刃が大地に叩きつけられ、衝撃波が発生した。
 よろめいた三人のうちリスティルに向かって滑り込むように前進し、幾重もの風の刃を足した剣で斬りかかる。
 炎とともに振るわれた鎌を飛びのいて躱し、ルナの魔術も魔剣――アルハザードを使って破壊する。
「断空牙・風華」
 大剣で虚空を薙ぎ払うと疾風が生じた。空気の塊が三人の身を打ち、吹き飛ばす。
「彼方より姿を現せ、天空の従僕。メテオスォーム!」
 三人が体勢を立て直した刹那、隕石が降り注いだ。規模が大きく、威力も高い魔術を完成させることができるのも、シルフィールの存在があればこそ。
 シルフィールが詠唱の隙を補い、カオスが剣撃の合間に魔術を撃ちこむ。
 彼らの絆の強さも、想いの深さも、レヴィエル達に劣らない。
 どちらか片方だけを攻撃して先に倒すという常ならば有効な戦法も、今回ばかりは使えない。片方に対して集中的に攻撃を加えれば、どんな状況でももう片方から痛烈な反撃が来る。あの主従ならばやってのけるという確信があった。
「シルフィールさん……!」
「我が主が戦うのならば。私は盾となり、剣となりましょう」
 日頃は温かな光を浮かべる金色の瞳には、冷ややかな風が吹いている。
 感情を抑え込んだような笑みは、主の浮かべるものとよく似ていた。
 ルナ目がけて冷気を帯びた剣が振り下ろされた。槍の柄で受け止めたが、シルフィールは刃を滑らせ、切っ先を地に向ける。間髪入れず先端が跳ね上がり、ルナの体を吹き飛ばした。
 身を翻す動作に遅滞は無い。
 レヴィエルの方を向き、元は護身術程度の心得しかなかったとは思えぬ鋭さで斬りかかる。懐に飛び込みつつ振るわれた一撃が彼の体勢を崩し、行動を遅らせた。
 レヴィエルとて大人しく攻められるつもりはない。反撃に雷を召喚し、刃に纏わせつつ斬りかかる。
「……っあぁ!」
 苦しげな声を漏らしたシルフィールだが、剣に引きずられるようにして踏みとどまる。
「アルハザードよ、我に力を!」
 大剣が喜ぶように刀身を振動させる。白い面の中、目ばかりが輝く異様な形相で、シルフィールが疾駆する。
 風の力を借り、捻りを加えつつ跳躍する彼女の攻撃をまともに受けたリスティルが息を詰めた。
 シルフィールの双眸が周囲を睥睨すると、視線に怯えたかのように大気中の水分が氷と化した。純白の粒を漂わせながらルナを吹き飛ばし、己も跳んで地に激しく叩きつける。
「はあ……はっ……く……!」
 シルフィールの肩が上下し、痛みをこらえるように唇を噛むが、眼光は衰えない。
 力を振り絞り、剣を前方に構える。呼び寄せた風が緑刃となって全員を切り刻んだ。
 無謀な攻撃は体を軋ませる。全身が悲鳴を上げている。
 戦いの先のことは意識から追い出さねば、こんなことはできない。
 今彼女にとって最も優先すべきことは、何としてでも勝利を掴み取ることだけだ。
 視界の端に主の姿を映し、彼女は口元を緩めた。どれほど消耗しても、その存在を感じるだけで己を支えることができる。

 大地にアルハザードを突き立てたシルフィールは、一旦両手を下ろした。
 風が渦巻き、彼女へと集う。
「幻魔烈風撃!」
 柄に手をかけ、大きく振るう。
 単純な動作が生み出したのは、風の精霊。
 うっすらと緑色の光を放つ優しい姿の精霊は、両手を広げて前進した。優美な線を描く腕が一同を抱擁し、力を奪い去る。
 リスティルが崩れ落ちたが、手当てをしようとするルナを目で止める。
 残された力は、まだ戦える二人のために使えと訴えている。
 ルナは頷き、限られた魔力をレヴィエルの治療に回した。彼女の傷も深く、ほとんど動けないが、彼に望みを託したのだ。
 舌打ちとともにカオスはルナを見つめた。
 ルナに人を超える力を与えたのはレヴィエル。神術を教えたのはリスティルだ。同胞二人の力を得た存在が魔王を支え、自分達を倒そうとしている。
 シルフィールに命じて彼女を守らせたこともある。己の領域内やアルギズの村で助けていなければ、ルナはこの場にいなかったかもしれない。見捨てていれば、障害になる可能性は低かっただろう。
 この光景も頭のどこかで描いていたはずなのに、手を差し伸べた。
 己の判断を後悔する気には、ならなかった。
 二人の想いを背負ったレヴィエルの姿がかき消える。カオスとシルフィール、二人の背に悪寒が走る。
 白い煌めきが視界に映ったのも一瞬。
 生じた傷を見て、やっと己が斬られたことに気づく。
「白夜流転」
 風を切る音、刃の鳴る音が重なり合って鼓膜に刺さる。
 空間ごと切り刻む剣技から逃れることはかなわない。
 頑強さを引き上げられている魔剣使いを倒すには、生半可な攻撃では駄目だと悟ったのだ。
 奥義を繰り出し、疲弊の極地に達していたシルフィールには耐えきれない。
 倒れ込む彼女を見て、カオスの顔がゆがむ。使い魔に向かって手を伸ばしかけた彼は、動きを止めた。
 地に伏せながらも、シルフィールの眼はカオスを見ていた。瞳に浮かぶのは、主の望みを叶えたいという強い想い。己が傷つきながらもただ一人の相手を優先している。
「一体、誰に似たのか……」
 呆れたような呟きに対し、シルフィールは黙って主を見つめている。
 指を引いたカオスは、杖を握り直した。
 その身から再び、金と白の光が立ち上った。

 魔術を組み上げていくカオスの姿に、レヴィエルの本能が警告を発した。
 この場所でなければ通常通り詠唱し、放ってくるだけだ。脅威には違いないが、レヴィエルならば凌ぎきれる。
 ここでは違う。
 己の作り出した世界に干渉し、力を引き出すようにして練り上げている。
 彼は地に膝をついているルナに目配せした。リスティルを連れて下がるよう促す。
「何かとてつもないものが……来る」
 ルナは案じるようにレヴィエルを見つめたが、小さく頷かれて速やかに従った。
 カオスは双眸に力をみなぎらせている。完全に敗北を受け入れるまでは、絶対に倒れない。消せない闘志ごと叩き斬るような一撃をくらわぬ限り、立ち続ける。そんな気迫に満ちていた。
 レヴィエルとて覚えがある。譲れぬもの――負けられぬ理由がある時、限界を超えても戦い続ける力が宿ることを。
 彼らは悪魔だ。闘争への強い欲求があれば、身体もそれに応えようとする。
 詠唱を中断したカオスは、増幅に意識を割きながらも問いかける。
「私に……見せられますか? 全てをぶつけるに値する力を。貴方の辿りついた、答えを」
 レヴィエルは己の両手の剣に目を落とし、わずかな間瞼を閉ざした。
 目を開いた時には、進む道は決定していた。

 激突に備えて力を高めていく間、レヴィエルは己の左手をカオスに向けて突き出した。手に握られている剣は、完成された芸術品に近い美しさを湛えている。
「それは――」
「ロシュール・ハンニバルが私に託したものだ」
 名剣ロシュール。名の知れ渡った鍛冶師が心血注ぎ魂を込めて打ち上げた、世界最高峰の剣。
 彼は、娘を戦いに駆り立てたのも、命を奪われたのも、己が剣を打ったせいだと悔いていた。剣士としてのロシュールは守りたいものを守れたが、鍛冶師としてのロシュールはそうできなかった。悔恨に染まった男は武器を作ることをやめた。
 そんな彼が再び剣を打ち、願いをこめてレヴィエルへと贈ったのだ。
 カオスは知った名を聞いても表情を緩めない。革命戦争の仲間は、彼にとって忌まわしい記憶を蘇らせる存在だ。
 表情が動いたのは、続く言葉を聞いた時だった。
「貴様を助けてほしいと。そう言っていた」
 倒せ、ではなく助けてほしいと望んだ。
 村に災厄をもたらし、世界を滅ぼすと宣言した青年に対しても、身を案じていた。
「それが何か? 人間が何を考えていようと、私の知ったことではありません」
「この剣。もとは、貴様が用意したのではないか」
 カオスに頼まれ領域を作る鏡を設置しに赴いた時、錆びた状態の剣が落ちてきた。それをロシュールに見せた結果、彼は希代の名剣を作り上げたのだ。
「位相の狭間に物を設置する。……貴様の得意分野だろう」
 カオスが道を拓こうとした場所にたまたま武器があり、偶然レヴィエルの手に渡ったとは考えにくい。その剣が革命の中心人物の使っていたものならば、なおさらカオスとのつながりを考えないわけにはいかない。彼は革命と深く関わった人物なのだから。
「この魔剣もそうだ」
 もう片方の手に握られている剣を持ち上げ、示す。闇の色の刀身から迸るのは異質な魔力。使用者を蝕む魔剣だ。
 魔剣には、たいした力の無い一般人を一流の戦士に押し上げるものもあれば、実力者が使ってこそ力を発揮するものもある。
 現在レヴィエルが使っているのは後者だ。恐ろしく扱いの難しい魔剣は、レヴィエル以外の剣士には使いこなせないような性能を備えている。
「ルナの、得物も」
 レヴィエルの視線がルナの手に向いた。彼女が手にしているのは風の精霊の名が冠された名槍。シルフィールと戦った後、カオスが現れ、使い魔を連れて去った。後に残されていたのがその槍だ。
 カオスはレヴィエル達の武器に目をやり、首を横に振る。
「止めさせるため、とでも言いたいのでしょうが……私はそれほど甘くない。そんなもの、根拠にはなりえない」
 熱のこもらない返答を聞いてもレヴィエルは動じない。わずかに視線を逸らしているカオスに鋭い眼差しを向ける。深紅の両眼は魂までも吸い込まれそうな光を湛えていた。
「もっと単純な話だ」
 自信に満ちたレヴィエルの言葉に、カオスは唇の端を持ち上げた。興味深いと言いたげに口元をゆがめ、答えを待ち受ける。
「何故、知らせた?」

 その質問は予想していた。返答も用意していたはずだった。
 短い問いに答えるまで、間があった。言葉を吐き出すまでのわずかな沈黙が、内心を語っていた。
「……余興、ですよ」
 ようやく口を開いても、歯切れの悪さは否めない。
「貴方達を招いたのも。こうして戦っているのも。神にも等しい己の力を実感し、酔いしれるため――」
「カオス」
 空気が震えた。切りつけるような語調にカオスの表情が翳る。
「私を侮るな」
 そんな言葉に騙されるほど、カオスを知らぬ彼ではない。
 ただ戦いを愉しみたいならば、他の状況で存分に試すこともできた。計画を悟らせぬよう立ち回りつつ力を振るうことも、彼の頭脳をもってすれば容易かっただろう。
「何年貴様と付き合いがあると思っている?」
 カオスがレヴィエルやリスティルの戦いの軌跡を知っているように、レヴィエルもカオスの歩んできた道を知っている。
 人を傷つけることをよしとせず、力を振るおうとしなかった男の強さも。
「遊びにかまけて目的を見失う愚か者ならば……今こうして立ってはいられまい」
 何年もかけて準備し、同胞の力をも奪い、世界を敵に回す覚悟で全てを賭して作り上げた計画。それが水泡に帰すかもしれないのに、ただの遊びや気まぐれを優先するなど、レヴィエルの知るカオスではない。仲間を甘く見た代償に、すぐ倒されただろう。
 彼に油断や慢心は無い。知を磨き技を鍛えてきた男だからこそ、己を最強だと信じていた頃のレヴィエルも高く評価していたのだ。
 計画を台無しにしかねない振る舞いは、思考力や判断力の欠如からくるものではない。思い上がりが招いたものでもない。それらの要素はカオスからかけ離れているのだから。
 導き出される答えは一つしかない。
「なればこそ。己が存在にかけて、止めてみせよう。それが友への――」
「もはや、敵です。全力をもって排除すべき……ね」
 レヴィエルの言葉を遮り、カオスが杖を振りかぶる。マントや服の裾がはためき、金色の髪が魔力の上昇に呼応して逆立った。
 敵だと告げられても、レヴィエルは気分を害した様子もなく双剣の切っ先を地に向けた。
 漆黒の髪が揺れ、空気が張りつめていく。周囲の気温が急激に低下したかのような錯覚が、距離を取ったルナ達をも襲う。
 手加減した攻撃では、使い魔の分まで戦おうとしているカオスを倒すことはできない。
 レヴィエルは始まりの森での誓いを思い起こし、低い声で宣言する。
「私は、お前を――」
 そこから先を言う必要は無かった。
 剣によって証明する。それだけだった。

 真剣な眼差しが互いの面に据えられる。
 一対一。
 魔王と賢者。
 最強の剣士と魔導師が、全ての力をもって激突する。
 先に魔術が完成し、荒々しく牙を剥いた。
 カオスは倒れ伏すかのごとき勢いで、深く身を傾ける。振り下ろされた杖の先端は地に触れんばかりだ。
 放たれた光は渦を巻き、黒衣を纏う長身を打ちすえ、引き裂いていく。
 力の奔流に歯を食いしばりながら、レヴィエルは見た。魔術に反映された、術者の精神を。相手の抱えている感情を。
「ぐあぁ……っ!」
 体の内部が削ぎ落されたような感覚がレヴィエルの精神を責め苛む。胸に空いた穴から虚ろな風が吹きこみ、全身を錆びつかせていくかのようだ。
 世界から色彩が消える。痛みすら鈍い。意識を掻き乱され、思考が千切れていく。
 『災厄』の名を冠された魔術は、たとえ防御に集中しようとその上からねじ伏せる。
 魔術を極めた魔導師はそう自負していた。事実、それだけの威力もあった。
 相手が、魔神でさえなければ。
「……レヴィエル」
 名を呼ぶ声に、感情がにじんだ。
 レヴィエルは立っていた。
 黒いコートのあちこちが破れ、体中血に濡れている。色素の薄い面も紅く染まり、黒髪が幾筋か頬に張り付いていた。深く裂かれた傷口から血が滴り落ち、恵まれた回復能力をもってしても塞がらない。呼吸も乱れ、眼光ばかりが鋭かった。
 無惨な姿だが、カオスは勝利の予感に酔うでもなく再び詠唱を開始した。奥義を耐えられても闘志には些かの陰りも無い。微かな笑みすら浮かんでいる。
 対するレヴィエルは、口の端から血を流しながらも、地を踏みしめている。
「クロックオーバー」
 再び刻の魔術が展開されてもレヴィエルの顔に焦慮は無い。カオスが時間や空間を操作するならば、その世界を叩き壊すだけだ。
 加速からの連撃が放たれようとした刹那、低い声が響いた。
「無想剣」
 彼は一度、二振りの剣を静かに鞘に収めた。
 緩やかな動作は一旦静止し、無音が訪れる。
 夜が訪れたかのように辺りが暗くなってゆく。存在しないはずの月さえ浮かび、冴えた光を湛えている。
 静寂を破ったのは、胴に叩きこまれた斬撃の音。
 静から動への移行は、時を統べるカオスの眼でも全く捉えきれなかった。
 美しく、残酷な攻撃を浴びた身が大きくはねた。視界が暗く染まり、何物かもわからぬ光がちかちかと瞬く。
「闇蛍」
 背後からの宣告とともに、刃が直撃した箇所に暗黒が溢れた。傷口から体内に流れ込む闇が、全身をズタズタに食い荒らす。
「がは……ッ!」
 衝撃に緑の眼が見開かれ、血塊が吐き出された。指から杖が離れ、地に落ちる。
 戦いの終焉を誰もが知った。
 勝利したレヴィエルも顔をゆがめ、膝をついた。力を振り絞って立ち上がり、体勢を整えつつ元の位置に戻る。何も意識せずこなす動作も、今は思うようにならない。剣を収めたものの、体中が軋んでいる。
 レヴィエルは片膝をついた相手に視線を向けた。
 誰よりも己を追い詰めた敵に。己をも凌駕する力を見せた友に。
 最も強力な剣技は反動も大きいが、承知の上で使用した。奥義を耐えた直後の身には酷だが、最高の技を用いねばならないと確信したのだ。
 自分達に計画を明かしたのは、おそらくは信頼の証。それに応えるのが己の役目だと。
 長年衝動をこらえてきた仲間が、初めて解き放った。その相手に自分を選んだ。それだけで十分、死力を尽くす理由に足る。
 破滅へと進もうとしているならば、なおさら力を振り絞り、限界を超えてでも止めねばならなかった。
(友として。この私の手で)
 多くの人間の未来を奪って何かを取り戻す。それを実行して苦しむのは、他ならぬカオスだと感じられたのだから。
 衝動を抑え生きてきた姿を、レヴィエルは知っている。どれほど目的が重くても、想いが深くても、きっと彼には耐えがたい。犠牲になったものの狭間で、取り戻したものを再び失ってしまう結末もあり得た。
 そうなれば、彼は完全に壊れてしまったかもしれない。

 震えながらも身を起こしたカオスが、顔を動かしてレヴィエルを見る。
 相手の眼に引っかかるものを感じ、カオスは記憶を探った。どこかで見た覚えがある。
 すぐに思い至り、見覚えがあるのも当然だと頷く。約十年前、大切な相手と仲間達が見せていたのだから。
 未来を掴みとろうとする者の強さは、他ならぬ自分が知っている。
 人間と悪魔は違う存在だと諦めていた心に、わずかな光が差し込んだ。
(人間は、変わらない……? 世界は、停滞し続ける……?)
 己へ問うが、答えはすでに見えている。
 歩みを止めたのは、レヴィエルではない。
 己の方だった。
 気づくのが遅かったのか。気づいていても目を逸らし、ようやく受け止められたのか。
 どちらにせよ、己の目的は果たせなかったという事実だけが残っている。
 戦いに敗れ、夢が潰えた彼の進むべき道は――。
 緑の眼が、地に座り込んでいるシルフィールと、近くに落ちている魔剣を映した。
 これから身を投じる世界に、彼女を連れて行く気は無い。
 代わりに持ち去るのは、己と同じ過去の遺物。使い魔が喰らわれぬよう、自分が抱えていくつもりだった。
 一人残していくなど、勝手な行動だとの誹りは免れない。彼女を悲しませ、苦しませるということを、誰よりもよく知っている。
 それでも、付き合わせたくなかった。
 もう一度シルフィールの面を見つめると、彼女は立ち上がり、傍へやってきた。彼の表情から何かを察したのか、傷だらけの体を支えようとする。
「マスター、お体は……!」
 己の傷も顧みず、主の身を案じる姿にカオスの顔が曇る。
 彼女と過ごした時間は、崩壊を鈍らせた。彼女の存在が、今の世界を捨てきれない理由の一つだった。
 今後も彼女と共に生きていくことを選べば、誰も悲しむことは無い。身近な幸せに目を向けるべきだという意見も理解できる。
(そう、できれば――)
 虚空に目を向け、力無く首を横に振る。
 それができるならば、世界を滅ぼそうとはしなかった。
 何よりも優先するものは変えられない。使い魔にとって最も重要なものが、主への忠誠であるように。
 カオスは己の計画を阻止した者達に視線を向けた。レヴィエルは神術を施されながらもカオスの真意を測ろうとしている。
「……貴方達で、良かった」
 傍らのルナやリスティルも視界に収めながら、カオスは小さく呟いた。
(私は、どこかで……この瞬間を待っていたのかもしれない)
 停滞した世界に破壊を。
 その言葉は己にも当てはまる。
 大切な相手が守ろうとしたものを――多くの人間の未来を壊そうとした。歩みを止め、過去に戻ろうとして果たせなかった。そんな自分ならば、ここで終わるのも悪くないと思えた。
 同じ渇望を抱えた同胞と、変化をもたらした少女によって。
 己と同じ道を歩み、異なる結末を迎え、力強く歩んでいく友の手で。
 世界は守られ、もう一つの世界は終焉を迎える。
「シルフィール」
 この世界にいない愛しい者の名を呟き、カオスは笑みを浮かべた。
 全てから解放されたような、明るい笑顔だった。
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