ガッシュSS『鍛鉄』
青い魔物――バリーはのびをした。
彼がいる場所はパートナーであるグスタフの家。エルザドルとの死闘の後、グスタフの自宅に戻ったのだ。
片方の角が折れているが、面に苦痛の色はない。魔物の回復力はさすがと言うべきか、傷の大半がすでにふさがっている。
彼は闘志をみなぎらせつつ、二階から降りてくる家の主の方を向き、口を開きかけた。
「早速次の――」
戦いに、と言おうとしたバリーは言葉を呑み込んだ。
その眼はパートナーの面に向けられている。
やがて彼は自分の傷に視線を移し、言い直した。
「今日は休もう」
「……助かる」
グスタフは重々しく頷き、息を吐く。
よく見ないと分からないが、わずかに顔色が悪い。
バリーが提案しなければ、グスタフが言うつもりだった。
負傷したわけではない。深刻な不調でもない。
軽度の脱力感や疲労に過ぎず、休息するのは速やかに治すため。
体調が崩れただけで戦えないなどと言うつもりはない。
激闘を制して強くなった若者と力を合わせれば、難敵を倒すことも可能だろう。
だが、何が起こるか分からないのが戦いというものだ。
竜族の神童と名高いエルザドルが、バリーに敗れたように。
不調を自覚していながら戦いに臨み、取り返しのつかない事態を招いた場合、後悔してもしきれない。
不利を承知で挑まねばならぬ局面はあるだろうが、今ではない。
「鉄みたいな男だと思っていた」
「ワシはただの人間だ。酒と煙草を嗜む、な」
冗談とも本気とも取れる言葉に対し、グスタフは淡々と返答する。面に感情の色はなく、内心を窺うことはできない。
戦いの中、長時間雨に打たれたのは、原因の一つに過ぎない。
直接攻防を行ったのはバリーで、肉体的な負担はそう重くはなかった。
原因は内部にあるのだろう。
緊張と、消耗。
彼は本を手に呪文を唱え続けた。極度に神経を張り詰めた状態で。
配分を考えて使っても、心の力が尽きる寸前だった。それほどの強大な相手だった。
ただ唱えるだけでは通じない。
タイミングを見計らう必要がある。
使いどころを間違えれば攻撃が通じないどころか、痛烈な反撃をくらう。
格上の敵との戦いは些細なミスも許されない。一瞬の判断の遅れが文字通り致命傷となる。
彼は集中を切らすことなく観察し続けた。
己ではなく、若者の未来をその手に抱えて。
感情を表に出さない男でも、疲労や消耗と無縁ではいられない。
限界が試されたのは、魔物だけではなかった。
体力の回復に努めるべきだと理解しているため、グスタフは余計な真似はせず、ベッドに行く。
気だるさを感じながら横たわる。
左手の甲を額に当て、ぼんやりと天井を眺める。
「鉄の男、か」
苦笑が漏れる。
肉体に関しては、いくらでも否定できる。
魔物の攻撃を受けても平気でいられるような頑強さを誇るわけではない。
負傷すれば動きが鈍り、限界を超えればあっけなく命を落とす、脆い存在だ。
内面を指しての言葉ならば、反論できない。
感情が無いわけではないが、表にはあまり出なかった。
感情が見えない。何を想っているのか分からない――そう言われることもあった。
端的に、冷たい、情が無いと評されることの方が多かったかもしれない。
彼らの言葉も的外れではない。心のどこかが重く冷えていて、何を感じているのか自分でも掴みかねた。
――少し前までは。
額から手をどけ、向きを変える。何の異変もない見慣れた掌だが、微かな違和感を覚えて傍らに視線を移す。
コバルトブルー色の本が視界に入り、無言で凝視する。
長い間、冷えた金属の色が心に広がっていた。
変わったのは、魔物と出会ってからだ。
深い青色の魔物は、竜巻のごとく停滞を吹き飛ばし、未知の領域へと運ぼうとする。
平穏な生活を懐かしむこともある。有難がらずに過ごしてきたが、若者にぶち壊され、いかに貴重なものだったか思い知らされた。
それでも、今は戦いと無縁の日常へと戻る気はならない。
魔物との日々が、鮮やかに心に焼きつく。目が痛くなるほど晴れやかな青空のように。
分厚い雲に覆われていた心が、確かに沸き立つ。若者の熱が伝わったかのように。
一眠りすると、疲労は綺麗に拭い去られていた。
これならば十分に戦えるだろう。
居間に行くとバリーがソファに座っていた。
(……珍しいな)
今までならば、戦いがないと分かっている日は、「鍛錬してくる!」と飛び出していった。
今日は、腕を組み、動かずにいる。己の内側を見つめるかのように瞼を閉ざして。
まるで眠っているかのように静かだ。
突然、唇が動いた。
「あんたは何のために戦うんだ?」
グスタフが目を向けると、バリーは青い瞳で真っ直ぐにグスタフを見据える。
「自分で考えたが、ハッキリしねえんだ」
今までも疑問に感じたことはあったが、深く知ろうとはしなかった。
グスタフが自ら語ろうとしなければ、わざわざ訊く必要もないと思っていた。
改めて聞いたのは、自らの戦いの目的を見つめ直したからだろう。
目的もなく戦っていたチンピラから、強き王を志す者。そして、王という高みを目指す男になった。
パートナーが何を目的として、どこへ向かっているか、知っておきたい。
「何のため、か」
地位や名誉は得られない。報酬も特典も提示されていない。
(得られるものは――)
バリーの眼差しを見つめる。
力の使い道が分からず苛立ちが燻っていた瞳は、今は澄み渡り、燃えている。
「すでに得たものはある。……だが、まだ足りん」
「どういうことだ?」
首をかしげたバリーに、グスタフは静かに語りかける。
「バリー。お前は今、手ごたえを感じているか」
「ああ」
バリーの返答に迷いはなかった。
エルザドルとの戦いを終えて味わったのは、高い山を登ったような感覚だ。
見たこともない景色を目にしたかのような衝撃を味わった。
「ならば、もう十分だと思うか?」
歩みを止めてしまうか。
そう問われ、バリーは頭を振る。
「……いや」
「それが答えだ」
見たいものがある。さらに進んだ先に、それは待っている。闘い続ける理由はそれだけだ。
バリーは自らが強くなり、大きくなることで。グスタフは彼を導き、見守ることで。
辿りつこうとしている。
「オレと似たようなものか。……なるほどな」
バリーは喉を鳴らすように笑う。
「どうした」
「よくできてるなと思ってよ」
魔物と人間。
種族も年齢も境遇も価値観も異なる者達が、ペアとなる。
ことごとく一致しないはずの二人が共鳴して、力を引き出し合う。
それは、どこかに重なる部分があるからだろう。
面白がるような表情のバリーに、グスタフは厳めしい声音で忠告する。
「だからこそ、今後の戦いはより厳しくなる」
力や心が上回る強者は大勢いる。
この時期まで残っているということは、パートナーとの絆も強固だろう。エルザドルよりも過酷な戦いを強いられる可能性が高い。
「だな。それでも……歩むだけだろう?」
素直に認めつつ闘志をにじませるバリーに、グスタフは淡々と告げる。
「ああ。進んでいける。強者の目を乗り越え、同じ眼差しを得たお前ならば」
バリーは目を瞬かせた。
「……あんたもだろう、進むのは。オレ一人に戦わせるつもりじゃないだろ?」
「当たり前だ」
激戦が待つのは承知の上で、間髪入れずに答えたグスタフに、バリーは破顔した。
「やっぱり鉄みたいな男だな、あんたは」
嬉しそうに笑うバリーに、珍しくグスタフの方が理解に苦しむ表情になった。