白い壁にもたれかかるようにして一人の男が思索に耽っていた。
青い髪の持ち主の中年男性は白い胴着を着こんでいる。表情は暗く、顔に刻まれている皺から疲労とも焦りともつかぬ色がにじみ出ている。
彼――エージスは学院で武術運動部の顧問を務めている。
エージスのすぐ傍には、同じ色の髪の少女が目に涙をためて立っている。普段彼女は武術運動部のマネージャーとして活動している。青い髪を細いリボンで縛っている彼女の表情は悲しみに曇っていた。
彼らが今立っているのは病室の前の廊下だ。
不良からメアリーを助けようとした若者が頭部を殴られ、病院に運ばれた。
エージスは乱暴に舌打ちした。獰猛な光が黒い瞳の中に浮かび、冷やかな輝きを灯す。拳に力がこもり、掌に爪が食い込んでいく。
(同じ目に遭わせてやろうか)
可愛い娘のメアリーに手を出そうとした。それだけで万死に値する。
数人がかりで、力づくで、従わせようとした。侮辱の言葉を吐いたとも聞いた。
この時点で百回殺しても足りないが、止めに入った若者への仕打ちも許しがたい。
複数で囲み腕づくで黙らせようとして敵わなかった。首謀者は諦めず背後から襲いかかり、頭を殴りつける。崩れ落ち、動かなくなった若者になおも攻撃を加え、恐れをなした仲間が止めると逃げていった。
エージスが経緯を知ったのは、若者が病院に運ばれある程度時間が立ってからだった。命に別条はないと医師から告げられるまで、娘は動転し、何が起こったか詳しく聞き出すどころではなかった。
事件直後に連絡を受けた時も若者が大変な状況になっていることしかわからず、慌てて駆けつけたエージスは絶句した。
頭部から血をだくだくと流し倒れている若者の姿に絶望の影が心を覆った。
生命が助かっても、親子の心から暗雲は去らないままだ。
『命に別条はありません。ただ、非常に言いにくいのですが……脳への損傷が激しく、後遺症が残る可能性が極めて高いと……』
若者は、一年足らずの間に目を見張るほど強くなった。
評価がゼロの状態からすぐ公式試合に参加できるようになり、勝利を重ねてランクを駆け上ってきた。
驚くとともに心が湧き立ち、思ったのだ。
どこまで行けるか、強くなるのか、見てみたいと。
(これがきっと、『期待の教え子』ってやつなんだろうな)
同僚のジュドにそう言ってみたこともある。青い肌を持つ竜人は目を細め、エージスが教師として奮起したのを喜んでいるようだった。
先日は若者と直接剣を交えた。全ての力をぶつけたのだ。若者ならば受け止められると信じて。
『オレを超えてみせろ!』
若者は見事に応え、打ち勝った。
数十年かけて培ってきた力を上回られ衝撃を受けたが、清々しい心地がした。
(なのによぉ……)
積み上げた力を失い、未来を失うかもしれない。永遠に可能性を絶たれ、駆け上ることもできなくなってしまうかもしれない。
メアリーが俯いて肩を震わせる。
「わたしの……せいだ……」
「おめえは悪くねえよ」
駆けつけた時に見た娘の泣き顔と、己の血に濡れて倒れ伏す若者の姿がエージスの胸を刻む。
「見つけたら、ただじゃすまさねえ」
エージスは低く唸った。
短気な性分だと自覚している。元々教師らしからぬ言動が目立ち、同僚のジュドからたしなめられたことも一度や二度ではない。
品行方正な、生徒の見本となる人物とは思っていない。
今も、飛び出したい衝動をこらえるので精一杯だ。
熱い感情は、少年の未来を思うと急激に冷えていった。
翌日、悪い知らせを覚悟していたエージスとメアリーに医師が少年の状態を告げた。表情には困惑が色濃く浮かび、話す最中も自分の言葉が信じられないように何度も首をかしげた。
脳に損傷を受け、半身不随でもおかしくないのに平気で歩き回ることができる。
言語野が反応していないのに話している。
考える脳が「世界の外」にあるからこその現象だが、それを知らない医師達は激しい混乱に陥っていた。
後遺症も無いと知らされ二人は胸を撫で下ろし、メアリーは病室に入っていった。
エージスは扉の近くに待機している。自分がいては邪魔になるかもしれない、二人きりにしようという心遣いだった。若者が不埒な振る舞いに及べば、すぐさま止めるつもりだったが。
異変はないか様子を窺っているエージスの視界に長身痩躯の男が映った。
「……教頭」
緋色の双眸は常と同じ鋭さを湛えている。服装もいつものように整えられている。
島に落ちてきた若者は、高級住宅地にある教頭の家に住んでいると聞いていた。教頭が保護者となり、指導している。武術運動部で頭角を現したのは、教頭から鍛えられているためでもあるだろう。
「見舞いか」
「着替えを持ってきた」
それだけ言って教頭は病室に入った。すぐに出てきた教頭は表情を崩さず、規則正しい歩調で去っていく。
真っ直ぐに伸ばされた背を見送ったエージスは事件直後を振り返った。
メアリーから連絡を受けたエージスは教頭に若者の危機を知らせ、一緒に駆けつけた。
地に倒れ、ピクリとも動かない若者の姿にエージスの身が冷えた。思わず教頭の顔を見たが、表情からは内心を読みとれない。
応急処置を施しながら教頭は小さく呟いた。
「小僧は、死なん」
その時、若者に期待していたのは自分だけではないと知った。
おそらく若者の成長を最も望んでいるのは彼だろう。
高みまで上ってくる日を待っていたはずだ。
彼は武術運動部に育てる相手がいないことを失望し、剣の道が廃れゆく状況を憂いていた。若者の素質を見抜き、天からの授かり物だと信じ、最強の剣聖とすべく鍛えてきた。
エージスは師弟が会話を交わしている場面を見たが、「キサマ」「小僧」と呼び、優しさを見せずに接していた。
一片の笑みすら浮かべずにいる彼が何を思っているのか見抜くことは難しい。
だが、ほんの少しだけわかる。
厳格な教頭と奔放なエージスでは、剣の道を進む点を除けば似通っている部分は無いように見える。正反対だと言う者が多いだろう。
しかし、対極に位置しているはずの二人は、その実同じものを見ていた。
彼らは普段教師として生徒を指導する立場にある。もちろんそれはやりがいのある仕事だが、時折衝動が湧き上がる。
そういった立場を忘れ、一時に全てをこめたい。
一介の剣士として戦える相手に自分の力をぶつけたいと。
挑戦者として目指すに値する相手と巡り合える日を待っていた。
エージスや教頭と違い、常識から外れた行動はめったにとらないジュドにも当てはまるだろう。盾と評され、堅実な戦い方をする彼の心の根底にも同じ感情が流れているはずだ。
(そのうちアンタを超えるだろうぜ。なんせオレに勝った男だからな)
己をも上回る実力があるならば、いずれ教頭にも打ち勝つだろう。その先を見てみたいという気持ちはきっと共通しているはずだ。
やがてメアリーも病室から出てきたため、エージスは聞いてみた。
「教頭は、何か言ってたか?」
「早く治せ、一日休んだ分を取り戻すのには十日かかるって」
「……やれやれ」
教頭が娘にも剣の素質を感じ取ったことを、エージスはまだ知らない。