空を切る音がした。
白い髪の壮年の男が木刀を振り下ろした。眼鏡の下の紅の瞳は目の前の空間に据えられ、月に照らされた庭には木刀を振る音だけが響いている。
彼は夕方からひたすら素振りを繰り返していた。すでに真夜中になっているが、手を止めようとしない。
眠気は無い。目は冴える一方だ。剣を振れば振るほど感覚は研ぎ澄まされていく。
男の名はロベルト・グランツ。シルフェイド学院の教頭を務める男だ。
剣の道を歩む彼は素振りを日課としているが、今回は常よりも気迫がみなぎり、尋常でない鬼気を放っていた。
数時間前の別れが体を動かしているかのようだった。
目の前で、弟子と認めた相手が消えた。
この家に住むようになってから一年が経とうとしていた矢先に、この世界からいなくなってしまった。
少しずつ体が薄れていく中で若者は告げる。
『災い』を止めるためにこの島に降り立ったこと。使命を果たし、去るべき時がきたこと。一年限りの体は消えゆこうとしていること。
語り終えた若者は感情の浮かんでいない目で師を見つめ、教頭も沈黙で応える。互いに、涙ながらに別れを惜しむような心根は持ち合わせていない。
別れの言葉を送る時も厳しく叱咤するような口調だった。若者は薄く微笑み、瞳と同じ色の空に溶けるように消えた。
家は若者が来る前と何ら変わりない。一人で暮らしていた頃の状態に戻っただけだ。しかし、以前より広くなったように感じられる。
「ふっ、はっ!」
木刀を振るう手に力がこもる。風を切り裂く音が鋭さを増した。
若者がここで暮らすようになってから数か月が過ぎた頃、庭に出た教頭は眉を動かした。
少年が地面に抱きつくようにして倒れている。
(体調不良か?)
足早に近づくと寝息が聞こえた。むにゃむにゃという不明瞭な呟きや、「ドゥブッハァ?」という意味不明の単語も聞こえてくる。涎まで垂らしている寝顔は安らかで、何の悩みも無いようだ。
若者は決められた修練の他、自主的に鍛えている。真面目に授業を受け、学校外の活動も熱心にこなしている。いくら恵まれた体力の持ち主でも、眠ってしまうのも無理のない状況だ。
(素振りくらい寝ながらできるようになってもらいたいものだ)
溜息を吐き、手を伸ばそうとした刹那、小さな声がした。
「と、さ……」
表情は、注意して見なければわからないほどわずかに緩んでいる。
若者がどんな夢を見ているのか、教頭には見当がつかなかった。空から人間が降ってきたというのに怪しみもせず、天から授けられた子として住まわせた。
若者に求めるのはただ一つ、強くなること。
必要最低限の会話しか交わさず、心を理解し交流を深めようとはしなかった。教える時も最低限の言葉で事足りる。
武の道の探究だけでつながっているだけの関係だと疑いもしなかった。
文句の一つも口にせず鍛錬に励む若者が休めるのは、夢の世界だけかもしれない。その時若者が頼り、若者を支えるのは別の人間だろう。
そう思いながらひとまず庭から運ぼうと体に触れた瞬間、再び若者が口を動かした。
「とう、さん」
呼びかける声は弾み、口元は綻んでいる。
教頭は一瞬動きを止めたが、背と膝の下に腕を差し入れ、軽々と抱き上げた。人一人抱えているとは思えない足取りで進んでいく。
下ろす動作は丁寧だった。
それから数日後、庭には寝ながら素振りをする師弟の姿があった。若者に宿るトーテムは呆れたが、無理に止めようとはしなかった。
常人では考えられない教頭の行動についていける者など、天から落ちた若者の他にはいないだろう。
若者は期待通り、否、それ以上の速度で強くなっていった。大会の決勝まで勝ち上り、対決する時も両者に気負いはなかった。
己を超える力の持ち主と戦う時を夢見て、予想より遥かに早く叶った。
そこで満足しなかった教頭がさらに強くなれと告げると、若者はしばらく動かなかった。一度頷きかけ、躊躇うように目を伏せたのは数カ月後に待つ運命を思い返したためかもしれない。
それでも、顔を上げ、嬉しそうに頷いた。
今はもう若者はいない。
(神がこの私に夢を見せた)
剣の道は廃れていくだけかと嘆いていたが、可能性を見出すことができた。失望に占められていた胸を湧き立たせた。
彼の夢を託した若者はいなくなったが、再び燃え始めた炎も、あの時感じた腕の中の熱も、全力をもって剣を交わした一時も幻ではない。
教頭は目を覚ましたまま、翌朝まで木刀を振るい続けた。