二学期ももうすぐ終わろうかという時期に、シルフェイド学院の学院長があることを教頭に問うた。
現在学院長の部屋に他の教師はおらず、呼び出された教頭は常と変わらぬ表情を浮かべている。
質問の内容は一学期が始まって間もない頃にぶつけられたものと同じ。
島に降りてきた若者についてだ。
自宅に住まわせると決めた教頭は、若者の素性には一切頓着せず、強くなる素質があるかどうかだけ見ていた。学院長にも最強の剣聖に育て上げるつもりだと告げ、鍛えてきた。
それから約半年が経ち、同じ質問が投げかけられる。
教頭の答えは、変わっていた。
若者を『弟子』と呼ぶのを聞いた学院長は瞼を閉ざした。
他人を手放しでほめることはない男が、彼なりの最大限の賛辞を贈ったのだ。
これからやろうとしていることを思うと気が重い。学院長は憂鬱そうな面持ちで口を開いた。
「彼が数ヵ月後に消えるとしても?」
表情がわずかに動いた教頭に、学院長は淡々と正体を告げていく。
若者が世界の理から外れた存在である、と。
彼の肉体は作り物だが、意識はこの世界の外にある。
この地を訪れた若者は、一年かけて様々な人物と出会い、冒険を進め、世界を『観測』する。そして、期限が来ると消えてしまう。肉体は消滅し、意識は大いなる海に還る。
弟子と呼ぶ相手がいなくなると聞き、教頭はわずかに目を細めた。学院長は吐き捨てるように続ける。
「問題は、その後なのだよ」
「その後?」
「ここは……ただ一人の観測者のために用意された舞台だ。観測者が去った瞬間、世界も無くなる」
古代遺跡やそこから発見された遺物、語り継がれてきた歴史、描かれる未来も全ては虚構。
観測者がどれほど世界を大切に思おうと、他人と関わろうと、いなくなった後には何も残らない。
滔々と語る学院長に教頭は訝しげな視線を向ける。
学院長の印象を生徒に問えば、悪く言う者は少ないだろう。長々と退屈な話を述べずに、短い言葉で生徒を激励するやり方が好まれていた。
常に冷静かつ理知的でいるわけではないが、夢と現実の区別はつく男だったはずだ。
今、その双眸には追い詰められた獣のような光がちらついている。
ただの世迷言と切り捨てるにはあまりにも気迫に満ちていた。
何故そのような考えを抱くに至ったかわからない教頭に学院長は微笑を漏らした。
最初、見えたものを信じられなかったのは彼も同じだ。世界が作り物だということも、若者が去った後の未来も、馬鹿げた妄想だと思った。
それがいつの間にか確信に変わった。
物に触れればおかしな数字や記号がちらつく。会話を聞けば変数、条件分岐、選択肢といった単語が浮かび上がる。
島の住人がそれぞれの意思に従い自由に動いているはずなのに、ある方向へと動かされる。小さな「間違い」が発生してもシナリオ通り修正される。
精神的な疲労が溜まっているのかと疑いもしたが、このようなものが見えるようになった原因に心当たりがあった。
ある少女との出会いから目に映る景色が一変したのだ。
「……狂っているのではないかと我ながら思う」
教頭は何も答えない。
関心を占めているのは、世界の姿とやらを知った相手が何をしようとしているのかだ。他の教師に知らせず己を呼び出して語ったのは、若者と関わりがあるからだろう。
「作り物の世界だとしても大人しく滅びを受け入れる気にはならない。それを覆す手段があるならば、選ぶつもりだ」
一年限りの世界を一度消す。そして、観測者が去っても存在し続ける世界を新たに作る。
瞼を閉ざせば、学院の同僚や生徒の姿が浮かぶ。
武術運動部で鍛錬に励む生徒と、指導する教師を見るとこちらまで身が引き締まる思いだった。
公安委員会に所属し、島の治安を守ろうと意気込む少女が走っているのをよく目にする。
地歴探究部で遺跡の発掘に取り組む教授と語らう一時は何物にも代えがたいほど楽しい。
大切だからこそ――守りたいからこそ、壊す。
ようやく真意を知らされた教頭の眼差しが険しくなった。
「彼は阻もうとするだろう。できることならば君に協力してほしいのだが」
教頭に若者を説得、もしくは足止めをさせるつもりで計画を明かした。
返答も緋色の眼も冷やかだった。
「弟子を鍛え上げる邪魔はしないでもらいたい」
学院長は小さく息を吐いた。駄目か、と呟く表情は予想通りと言いたげだった。
学院一の武闘派である教頭がその気になれば、学院長を止めることは容易いはずだ。だが、学院長の表情に焦りはない。
「……高みを目指す姿勢を私は尊敬しているよ。だが、だからこそ、行かねばならない。このままでは君の修練も無意味になる。積み上げた力も、消えてしまう」
学院長は親しげに両手を広げた。
「君とはまた会いたいものだ。……新たな世界で」
教頭が木刀を構えようとしたが、遅かった。
空間がねじれ、ゆがみ、曲がる。ひずみに呑みこまれた肉体に四肢を引き千切られそうな衝撃が襲いかかった。
意識が白く塗られ押しつぶされるような感覚に、思わずよろめき膝をつく。
すぐさま立ち上がろうとしたものの動きが鈍い。滅茶苦茶な流れの水中を進んでいくように、体が思うように動かない。
彼に時間や空間までもが狂っていると知覚できたかどうか。
体勢を立て直すより早く、十字型の眩しい光が視界に広がった。
「時空断裂」
学院長が手に入れたのは、単に見る能力だけではない。
時や空間を越え、干渉する能力だ。
時空を捻じ曲げて攻撃に利用する。普通の人間ならば抵抗のしようもなく倒れてしまう。
学院長の体が揺れる。足取りもおぼつかない。
華奢な少女より体力において有利なはずなのに、負担が大きい。
使いこなしきれていないため、出力が不安定で体力を消耗してしまう。
異質な力に体が馴染んでおらず、内側から蝕まれていくかのようだ。
「力を手に入れたのが君ならば……どうなっただろう?」
学院長は呼吸を整えながらその場を後にした。