森に隠れるような佇まいの雑貨店を男子生徒が訪れたのは、年が明けて数日後のことだった。
右目は眼帯でふさがれ、露になっている左目には鷹のような光が湛えられている。
彼が通っているのはシルフェイド島の中央に位置する学院である。
小さな雑貨店は島の東側、新開発地区にある。目立たない場所に位置しているためか学院の生徒はあまり立ち寄らず、閑古鳥が鳴いている。
今入ってきた生徒も、クラスメートから聞かなければ存在すら知らないまま卒業したかもしれない。
入学して間もない時期に知ることができたのは幸運だったと彼は思う。
大勢の人間の中で騒ぐのは苦手だ。静かな店内で落ち着いて商品を眺める方が性に合っているため、度々訪れていた。
店主お気に入りの一品はつぶらな瞳のニワトリの置物だ。大量に仕入れたが、なかなか捌けずに困っているらしい。
他には授業で使う木刀や胴着、栄養ドリンク、魚のエサ、生の肉まで売っていた。小物や壁紙など可愛らしく、牧歌的な雰囲気が漂う店内は温かな空気に満ちている。
だが、それに似つかわしくない跡に生徒は目をとめた。床や壁は修理されたばかりのようだ。穴が開き、焼け焦げたのを取り繕ったような。
生徒はしげしげと眺め、慎重に問うた。
「何があったんですか」
店主、ユーミスは微笑んだ。灰色と紫の中間の色の髪は豊かに波打ち、榛色の目が細められる。
「――さんに助けられたんです」
その若者は、黒い髪に青い目をしている。武術運動部に所属して日々剣の稽古に励み、勉学にも精を出していると周囲からの評判は上々だ。突然米を生のままかじったり、魚のエサを美味しそうに食べたり、ちょっと変わっているとも言われている。
「――に?」
「お知り合いですか?」
「ええ、同じクラスの……友人です」
まあ、と声を上げたユーミスは眼帯の生徒を見やった。
表情の変化に乏しいという印象を抱いていたが、隻眼は若者について知りたいと訴えている。誰でも友人とみなしそうにない。口にするからには、心から認めているはずだ。
ユーミスは嬉しそうに語り始めた。
最初店を訪れた時はニワトリの置物や魚のエサを買っていった。それからちょくちょく店に来るようになった。ジョギングで店の近くを通りかかることも多い。
「ニワトリの置物を気に入ったそうです。夜中に締めつけられたような声を上げるのがキュートだとか」
(どんな趣味してるんだ)
呆れ困惑する生徒とは反対に、ユーミスの顔が輝いている。
「おかげで借金を返すことができました」
そこでユーミスの表情が曇る。ここからが本題だと悟った生徒が表情を引き締める。
前向きな気持ちになったのもわずかな間のことで、ユーミスの娘――ウリユという名の少女――は怖ろしい未来を告げた。
自分達は怖ろしい怪物に襲われ、死んでしまうと。
他人に話せば一笑に付されるだろう。
今ここに、店主は傷一つなく立っている。無事に生きている。子供の戯言だ、当てにならないと呆れられるに違いない。
だが、娘の予言は外れたことがなかった。
ウリユの能力は、人々の辿る線の先を見るようなものだ。委細漏らさずあらゆる事象を見通すわけではないが、そこらの占いなどよりもよほど当たる。
その中で、若者だけが、どう動くか全く見えない。
彼の行動――干渉で他者の線まで変わるかもしれない。
彼に頼めば自分達のために動いてくれる可能性があったが、親子は他者を巻き込むことを選ばなかった。時間が無かったためでもあるが、最大の理由は危険に晒したくなかったからだ。
彼がどうなるか見ることはできない。無事に切り抜けるかどうかわからないのだ。
あと数日でクリスマスだと島の住人が浮かれる中、親子の前に怪物が現れた。
灰色の巨躯に装甲を纏い、頭部には角がある。屈強な体格や固い皮膚は竜人に似ている。
細い目には暗い炎が燃えている。人ならざる者が、殺意を剥き出しにして睥睨する。一瞥を浴びただけで力が抜けてしまいそうだ。ただただ怖ろしく、手足が震える。娘を守ろうと木刀を構えるだけで精一杯だ。抗おうとしても手足は言うことをきかない。
「我は真なる魔王。歴史を改竄し世界に滅びをもたらす者よ、死んでもらう」
何を言われたのかユーミスもウリユも理解できなかった。未来を垣間見ることができても、大勢の人々に干渉し、世界を変革するような力はない。その意思もない。
しかし、獰猛に目を光らせる怪物に言っても通じないだろう。必死に首を横に振り否定するが、目もくれない。何を訴えようと聞く耳を持たないことは、表情から読みとれる。
太い腕が振りかざされる。
鋭い爪を備えた手は、人間の肉体を容易く貫き、骨を折り砕いてしまうだろう。
ユーミスが唇を噛みしめ痛みを覚悟した瞬間、影が差した。
「――さん……?」
眼に映ったのは、学院の青い制服。
若者がユーミスと真なる魔王の間に割って入ったのだ。
彼がどんな行動をとるか、ウリユの能力でも知ることは不可能だ。よりによって今日雑貨店に来るとは思わなかった。それとなく遠ざけたはずだったのに、ここにいるのは偶然か必然か。
自分よりも遥かに大きな体躯の持ち主を前にして、怯えは感じられない。背中しか見えないが表情はきっと静かなままだろう。
退く気はない。
彼は戦うつもりだ。自分達を助けるために、怖ろしい魔物に挑もうとしている。
「に……逃げてください!」
「そ、そうだよ。お兄さんには関係ないから」
若者にユーミスや少女の言葉を聞き入れる気はない。無言で首を横に振り、荷物袋から木刀を出して戦う構えをとる。
「邪魔はさせんぞ」
にたりと笑った魔王に向かって若者は得物を握りしめ、地を蹴った。
戦いは、目をそむけたくなる有様だった。
防御の姿勢をとっても防ぎきれず、傷が刻みこまれていく。肉が弾け、血が飛び、床に撥ねる。
床や壁は雷を浴びて焦げ、穴が開いている。商品は床に散らばり、形をとどめないほど壊れているものもあった。
木刀は半ばから折れ、無残な姿を晒している。
真なる魔王は軽く息を吸い、吐き出しながら腕を突き出した。
青い光が迸り若者の身を焼く。
嫌なにおいが漂ったが若者の表情は変わらない。ただ、魔王を止めるという意思のみ面に載せている。闘志はいささかも衰えていないが、損傷や疲労が重なり、動きは目に見えて鈍っている。
真なる魔王は哀れむような、蔑むような視線で立ち続ける若者を見つめた。
いかに彼一人が抵抗しようと倒れるのは時間の問題だ。
「終わりだ」
真なる魔王が終焉に相応しい言葉を送ろうとして、止めた。
荒れた店内に足を踏み入れた人物がいたためだ。
壮年の男が大型の獣のようにゆったりと歩を進める。白い髪はウェーブがかっており、眼鏡の下の赤い目が鋭く光っている。スーツにはしわ一つなく、手には飾り気のない財布が握られていた。
「財布を忘れるとはたるんでいる証だ。小僧」
「……は?」
自分の家で我が子に説教するような台詞に、真なる魔王が目を丸くした。
異形の怪物と若者が対峙し、その後ろで親子が身を寄せ合うようにして震えている光景も目に入らないのか、若者に悠々と歩み寄り財布を渡す。
怪物への恐れも、襲われている者達への気遣いも、表情には全く浮かんでいない。
ユーミスもウリユも予期せぬ来訪者に目を丸くしている。
「教頭先生……!?」
彼はシルフェイド学院で教頭を務めている。名はロベルト・グランツという。剣士として名を馳せる彼は、文武両道の体現者として語られていた。
彼もたまに栄養ドリンクを買いに来る。自分が飲むのではなく、鍛えている若者のために用意しているのだろうとユーミスは睨んでいた。
教頭は店に来ないはずだった。
若者の「財布を忘れる」という行動によって、他者の辿る線まで変化したのだろう。
「気を引き締めていっそう鍛錬に励め。よいな」
教頭の眼はすでに戦いの後を見据えている。この場を切り抜けられると疑っていない台詞を、若者は否定しなかった。
親子は何故教頭が焦らないのか理解できず、真なる魔王は冷やかに笑う。
「多少鍛えていようと、ただの人間が敵うわけが無い」
教頭は言い返そうとはしなかった。常に持ち歩いている木刀を構え、静かに敵を見据える。
戦闘態勢をとった教頭にユーミスが警告の叫びを上げた。
「やめてください……!」
いくら剣の腕が優れていようと、相手は強靭な体を持つ化物だ。おそらくは種族の頂点に立つ力量があるだろう。
目の前で若者が一方的に痛めつけられるのを見た後では、到底敵うとは思えない。
「あの怪物の言う通り――」
「ただの、人間?」
巻き込むまいと叫ぶユーミスの言葉を遮るように若者がポツリと呟いた。おかしなことを聞いたというように、自分の耳が信じられないと言いたげに、わずかに首をかしげる。一瞬だけ口元に笑みの影がよぎった。どういう意味か問おうとした刹那、ユーミスは息を呑んだ。
真なる魔王が余裕に満ちた笑みを浮かべ、一撃を見舞おうと腕を振るった。
空気までもが凶暴な槌となって体を殴りつける。まともに食らえば木刀は小枝のように折れ飛び、肉体はバラバラに引き裂かれてしまうだろう。
迫りくる剛腕に対し教頭は低く身を沈めた。体の前で得物を水平に傾け、受け止める。
当たる瞬間に木刀をずらし、衝撃を殺す。綺麗に捌ききったことを誇るでもなく、教頭は刀を返し、掬い上げる一撃を叩きこんだ。
「なっ……! バカな!?」
作りものに近い体を持つ若者ですら受け流しきれなかった攻撃だ。人間の寿命を考えれば、ピークを過ぎて衰えるだけの男に耐えられるはずが無い。
予想に反して傷らしい傷を負わず、反撃までしてのけた相手に真なる魔王の反応が遅れた。
木刀が空を滑る。腹部に痛打を浴びてよろめいた巨体に連撃が奔った。
「ぐっ!」
信じられないとばかりに目を見開いているのは魔王だけではない。ユーミスも目の前に展開される光景が飲みこめず、呆けたように小さく口を開けている。
先ほどのユーミスの疑問に答えるように若者は小さな声で呟いた。
「ただの人間が、上空から落下してきた人間を受け止めて無事で済むと思いますか」
「え?」
目を瞬かせた親子に言葉を続ける。頼もしい師について語るというより、ついていけないと呆れているような口ぶりだ。笑みも引きつっている。
「一晩中素振りして平然としている人を、ただの人間と呼べるかどうかわかりません。……しかも寝ながら」
「ええっ!?」
ユーミスやウリユが聞いているのは、「極めて厳格な教師で武の道を歩んでいる」という情報だけだ。若者に負けず劣らず無茶な行動に走り平然としているなど考えたこともなかった。
異なる一面を知らされた親子の心に「聞かない方がよかった」という考えがちらりと浮かんだ。
彼女らの眼の前で、人間かどうか疑わしくなる男と真なる魔王の一方的な戦いが繰り広げられている。
接近戦を挑むのは得策でないと判断した魔王は一度後方へ退き、理力を高めた。
視界を埋め尽くすように蒼い雷の網が広がった。
避けることは不可能。
そう見てとった教頭は懐に飛び込んだ。雷に触れながらも臆することなく踏み込む様は、猛る獣のよう。
木刀で腕を強かに打ち、軌道を逸らす。がら空きになった胴に牙のごとき一撃が突き刺さり、くぐもった呻きが吐き出される。
木刀一本で魔王を追い詰めていく姿に獣の像が重なり、ユーミスは思わず目をこすった。
「教頭先生があんなに強いなんて……」
若者は同意を込めて深く頷いた。
ラクーンいわく、「クソ強い」。
アウルいわく、「ほんとうに人間なんですか!? 勝てる気がしませんよ!!」。
自らが宿すトーテム、ファングも「ふざけるな、こんな人間がいて許されるはずがない」と憤っていた。
Sランク神話杯の頂点に君臨する剣士。
『恐るべき最強の牙を持つ白虎』とまで形容された男。
「先日戦った時もボコボコにされました」
若者は爽やかな笑顔とともに言いきった。
「ぐ、うぅ……!」
追い詰められた真なる魔王は悔しげに牙を鳴らした。目には悲壮な光が瞬き、痛みに耐えるような声が絞り出される。
「『災い』を起こそうと暗躍する者どもめ……我は負けぬ!」
『災い』という単語を聞きとがめ、若者がハッとして顔を上げた。
「待ってください! 自分も『災い』を止めようとしているんです!」
「えっ?」
真なる魔王はキョトンとして若者の顔を凝視した。色濃く浮かんでいた敵意や殺意が見る見るうちに薄れ、灰色の顔が心なしか青ざめる。
混乱する魔王に若者は語っていく。ユーミスには理解が及ばない部分もあったが、おおよそは掴めた。
数ヵ月後に島を襲う『災い』の正体を探り、止めること。そのためにこの地にやってきたのだという。
荒唐無稽な話だが、ウリユの予知能力に日頃から接してきたユーミスはすんなりと受け止めることができた。何より、魔王や人間と認めたくない男の力を目にした後では疑う余地はない。
「何ということだ。我が集めた情報が間違っていたというのか」
闘志の喪失を感じ取った教頭は木刀を下げた。
若者は激闘を裏切る結末に力の無い笑みを浮かべている。真なる魔王も同じ気持ちだった。未来を見る少女のせいで世界が滅ぶと知り、防ぐために行動を起こした。真剣に憂い戦った結果がこれでは、脱力せざるを得ない。
落ち込む魔王にユーミスは語りかけた。困惑した笑顔の下から暗い怒りがにじみ出る。
「つまり私達は、勘違いで襲われたということでしょうか?」
「……すまぬ……」
店内を見渡すとあちこちに穴が開き、床が割れている。売り物にならなくなった品も多く大損害だ。借金を返し終えたばかりの雑貨店が対処できる額ではない。
結局全額修理費を出すことになった真なる魔王の傍らで、教頭は何事もなかったかのように栄養ドリンクを購入して若者とともに帰っていった。
聞き終えたアルバートは若者について知るという当初の目的も忘れ、教頭に逆らわないでおこうと心に誓った。