「おい」
ナナシは顔をしかめた。
彼がいたのは本部内の広間だ。テーブルに座って雑誌を読んでいた最中、眠りに引き込まれた。
柔らかな寝床でないとはいえ清潔で温かな場所にいるというのに、夢の世界は彼を威圧する。
彼の前に広がっているのはトーロファミリー内の廊下だ。
「おい、そこの」
もう一度乱暴に呼びかけたのは黒スーツを着込んだたくましい青年だ。髪は短く、頬に傷が刻まれている。
ナナシは苦々しさとともにぶつけられた言葉を噛みしめる。
彼に名前はなかった。
雑務用HANOI、型番21。必要な情報はそれだけだ。
青年は『彼』に、写真と名前、住所等が記された紙を突きつけ、居丈高に言いつけた。
「この男を連れてこい。どんな手を使ってでもだ」
(ああ、これは――)
ナナシはいつ頃の出来事か思い出した。
この時はまだ、自分の立ち位置を理解していなかった。
愚かにも楽観視していたのだ。己の将来も。人間との関係も。
『彼』は命令の内容に戸惑った。
青年は連れてくるという言葉を使っているが、穏便に済ませる気はないのは明らかだ。
基本的にHANOIが人間に害を加えることはできない。できるとしても、自分を攻撃してきたわけでもない相手に危害を加えようとは思えない。
「何で、そんな――」
尋ねようとした瞬間青年に胸倉を掴まれ、壁に背中を押し付けられた。
勢いよくぶつかり、圧迫された『彼』の体が悲鳴を上げる。
「口答えすんのか、ああ!?」
青年が拳を振りかざしたところで、静かな声が響いた。
「落ち着きなさい」
声をかけたのは青年の後方にいた中年の男だ。困ったように眉を下げて笑う顔は、裏社会の人間には見えない。ぺこぺこ頭を下げる姿が似合う風貌だ。
殴られるのを止めてくれた。
安堵で口元が緩みかけた『彼』の前で、温厚そうな男は青年に注意した。
「闇雲に殴ってはいけないよ」
「す……すみません」
窘められた青年は身を縮める。先ほどまでの怒気は霧散したようだ。
『彼』が止めてくれた男に感謝を告げようとした瞬間、相手は言い放った。
「使い捨てでも道具は道具。役立つなら有効に使うべきじゃないか」
凍り付いたように動きを止めた『彼』に男は微笑を向ける。
次の瞬間、鈍い音が響いた。
男は無造作に『彼』の腹に拳を埋め込んだのだ。『彼』は苦悶に顔をゆがめ、重い音を立てて床に崩れ落ちる。
「首から上は注意しないと……特に雑務用は脆いから。ね?」
教師が見本を見せるように青年に優しく語りかけながら、男は『彼』の鳩尾に革靴の爪先を叩き込み、軽くねじった。
「頭が壊れたらお終いだ。もったいない」
「……っ!」
損傷しても直すつもりはないということだ。
呼吸ができない『彼』の髪を男は乱暴に掴んで持ち上げる。ぶちぶちと、ピンク色の髪がちぎれる音がする。
「ちゃんと言ってなかったのかな。分かりやすく伝えないといけないね」
笑みを絶やさぬまま、男は宣告した。
「HANOI風情が人間様に逆らうな。……これなら理解できたかな?」
「は、い……。分かりました。人間様」
苦痛と恐怖に鈍る思考を叱咤して、『彼』がかろうじて返事をすると男は手を放した。
「ま、実際は人間様にも色々あるけど。これくらいシンプルな方が混乱しなくていいよねえ」
目に映る『彼』をまるで見ていない男の言葉を、『彼』はぼんやりと反芻した。
人間を個人として見るのではなく、一括りにして疑問を持たずに従え。
男が言いたいのはそういうことだろう。
『彼』は震えを押し殺して仕事を片付けにかかった。
視覚に異常は発生していないのに、世界が暗く見えた。
ナナシは夢の中で目を閉ざした。視界が闇に包まれても音声が四方から襲い掛かり、精神を苛む。
――オイ、それ処理しとけ。
――所詮雑務用だな。
――とっとと「ゴミ」片づけてこいよ、お前。
――HANOIごときが。
――薬の取引? アレにやらせりゃいいだろ。
どす黒い何かが湧き上がり、ナナシが歯を噛みしめた時、声が響いた。
「ナナシ」
一瞬、自分のことを呼んでいると気づかなかった。
「ナナシ?」
気づかわしげに尋ねられ、ようやく意識が今いる場所に引き戻される。
顔を上げると、眼鏡をかけた青年がナナシを見つめているところだった。青色の目を細め、丸みを帯びた面に憂慮を漂わせている。
彼の名はコーラル・ブラウン。この本部の監察官だ。
「あ……すみません。探索ですか?」
「そう思って誘いに来たんだけど、また今度にしようかな。君がここで居眠りするなんて珍し――あっ」
コーラルの言葉が途切れ、心配の色が濃くなった。
「ひょっとして、僕の仕事を手伝うせいで疲れてるんじゃ……?」
「違いますって。俺が自分の意思でやってることなんで。ストレス値も下がってるでしょう?」
留守番に回されそうになったため、ナナシは早口で健康だと主張する。
「ちょっとうたたねしただけです。俺も行きますよ」
コーラルの顔はまだ晴れない。まるで自分が疲労しているかのように溜息を吐く。
「君が手伝ってくれるのはすごく助かるけど、無理をさせたくないんだ。君は娯楽施設でも全然息抜きしないし……」
「大丈夫です」
「君の大丈夫は全然当てにならないよ! ケガしていてもそう言うんだから」
精一杯怖い顔を作るコーラルだが、のんびりした気性がにじみ出ていて迫力はない。
笑いそうになったナナシに対し、コーラルはナナシの目を見つめて告げた。
「したいこととか欲しいものがあったら遠慮なく言ってね。僕にできることなら何でもするよ、ナナシ」
「……っ」
ナナシの目が細められ、口が微かに開いた。
過去に浴びた眼差しが四肢を縛り付ける。冷ややかな声が身を竦ませる。
頭を押し付けられた壁の感触が、蹴り倒されて頬に触れた床の冷たさが、次第に増していく関節の軋みが、意識を埋めていく。
それらをかき消すかのように目の前の青年の眼や声が内に響いた。
正反対のものがぶつかり合い、ナナシの胸を食い荒らして突き破ろうとする。
叫びたい衝動を全力で抑えつけ、ナナシはそっぽを向いた。
「……別に」
「ちょっと! 今何か言おうとしたでしょ」
「ここには大抵揃ってます。……一番は、ちょっと手に入りそうにないんで」
組織に帰りたくないと駄々をこねても監察官を困らせるだけだ。
現実に戻れば、コーラルは光の当たる道を歩む、善良で真っ当な人間。ナナシは汚れ仕事をこなし、薄暗い路地裏にいるHANOI。
二人の生きる世界は違いすぎる。どちらかが手を伸ばしたところで届くとは、ナナシには思えなかった。
現実でコーラルがナナシに関わろうとして失敗した場合、どんな末路を迎えるか。
ドラム缶。
想像すると言い出せない。
海。
コーラルが追い返されるだけで済めばいい。自分だけが壊されるのも耐えられる。
山。
最悪の事態は取り残されること。
シャベル。
(俺は、アンタの死体を埋めたくない)
コーラルを信じると決めたとはいえ、本心を全てさらけ出す気にはなれなかった。
「帰りたくない」「助けてほしい」の一言が、とても遠い。
諦めることに慣れてしまった。
助けの求め方を忘れてしまった。
救済を必要とすればするほど、救われる道が描けなくなっていく。
こっそり息を吐きだした彼の前で、コーラルは首をかしげている。
「何だろう……。すごく豪勢なフルコースとか? ジョルジュに力を貸してもらって、皆で協力すればできないかな」
「誰かさんと一緒にしないでください。そんなんだから体型を気にする羽目になるんですよ」
「うっ! そ、それは言わないで。うーん、何かな……」
コーラルはナナシの欲しいものについてまだ頭を悩ませている。彼はナナシが苦しみを訴えれば、力を尽くして取り除こうとするだろう。
(人間も、捨てたモンじゃない)
善良な人間もいる。HANOIの内面を尊重する者がいる。
それらの事実は喜ばしいはずなのに、ナナシの中に苦しみが募っていく。
諦めの海に浸っていたのに、引きずり出されてしまった。
コーラルはナナシに「もしかしたら」と思わせる。手を伸ばして届かなかった時の恐怖や絶望を知りたくないのに、期待を抱かせてしまう。
「……アンタは、残酷な人ですね」
「えぇっ!?」
ナナシはコーラルから目を逸らし、苦く笑った。