「ん?」
軍事博物館にて、緑髪の男は一点に目をとめた。
彼の体は機械でできている。AI搭載型アンドロイドHANOI。それが彼の正体であり、名をローランドという。
視線の先にいるのは背筋をピンと伸ばした客だ。姿勢の良さから健康状態や体力に問題はないことが窺えるが、髪に色はなく、顔にも老いが刻まれている。
客が立っているのは軍事用HANOIの歴史が記された年表の前だ。
短くない時間が経っているのに、食い入るように見つめている。
案内人を務めているローランドは、己の役に立てることはないかと意気込んで歩いていく。当然のごとく早足で。
白い軍服が体の一部であるかのように馴染んでいる青年が猛烈な勢いで近づく様は、かなり怖い。長身も相まって尋常でない威圧感を発している。
足音に気づいた客は視線を向け、微かに口を開けた。
「ローランド」
呼ばれたローランドも口を開け、言葉が転がり落ちた。
「貴方は……!」
客はローランドが軍にいた頃の上官だった。
それ以前にローランドが指導した部下でもあった。
重くなりそうな口をこじ開けて、ローランドは元気よく尋ねた。
「お目当てのコーナーはやはりここですか? 詳しく解説しますよ!」
「熱心に学ぼうとして来たわけではない。何となく……そう、何となくだ」
「何となく、ですか?」
ローランドは釈然としない面持ちで聞き返した。
長時間、飽きることなく年表を読み込んでいた男の姿は、その一言で片付くものではない。
物言いたげなローランドに対し、男は認めぬようにかぶりを振った。
「軍事用に今も昔も関心などない。考えてきたのは性能……いかに戦力として計算できるかだけだ」
返答を聞いてもローランドは納得できないままだ。
軍事用HANOIの性能を検討・計算するならば、眺めるべき対象も時間も違う。
ローランドの疑問が伝わったのか、男は咳払いをした。
「……私と同類の若造の話をしよう」
自らの思想を強調するかのように、彼は語り始めた。
「そいつは弱いくせに立派な兵士になるんだと張り切る馬鹿で、そのままならすぐに死んでいただろう」
ローランドの眼が見開かれる。
「そんな無謀な若造に目をかける奴がいた。軍事用HANOIである彼は若造を鍛え上げ、そいつが昇進したら我が事のように喜んだ」
それから何が起きたか、ローランドは知っている。
『HANOIの教官と人間の生徒』だった関係が、『人間の上官とHANOIの部下』へと変わり、態度も変わった。
男はローランドが鍛えたかいあって頭角を現し、HANOIゆえに地位が変わらないローランドを抜かして昇進し、立場が逆転した後はローランドをただの部下として顎で使うようになった。
「軍隊において上下関係を明確にすることは不可欠だが、それまで交わされていた私的な会話もなくなった。若造が掌を返した理由は何だと思う?」
「それは――」
「何もなかった」
男は冷静に事実を告げる。
「周囲から圧力をかけられた。家族のために出世しなけばならなかった。……そんなお涙頂戴の事情があったわけではない」
あったのは、常識的な無関心。
「若造は、若造でなくなった今でも、当たり前のことをしたと思っている」
人間が道具としてHANOIを使う。両者の関係もHANOIが何を考えるかも考慮する必要はない。
それが『常識』だった。
「ならば何故、このコーナーにいるのです?」
「コーラル・ブラウンという男の本を読んで……ほんの少し、興味が湧いた」
それだけだ、と軽く続けようとした男の声を大声が遮った。
「コーラルの!?」
目を輝かせたローランドを、男はあっけにとられた顔で見つめている。
「分かってはいたがアイツはすごいな! こうやって世界の当たり前を変えていくんだ!」
コーラルは、道具として踏みにじられ苦しむHANOIの声を掬い上げ、発信した。
HANOIに対する見方や扱いが一気に塗り替えられたわけではないが、人々の「こうあるべき」に一石を投じ、大きな亀裂を生じさせた。彼の起こした波は緩やかに広がり、次第に大きくなっていく。
壁が震えるほどの大声を炸裂させたローランドは我に返り、慌てて口を押さえる。
掌をどけた口元に柔らかな微笑が浮かんでいるのを見て、男は目を細めた。
「変わったのはお前もだ、ローランド。……見違えるようだ」
「そうですとも!」
男はローランドから目を逸らし、語りかける。
「以前のお前はそんな風に笑うことはなかった。任務に関係のない友人を語ることも。我々がそうしたのだから、当然の話だが」
淡々と語る声の奥に、ローランドは微かな苦さを感じ取った。
「そうおっしゃる貴方も、随分と変わられた」
かつての男ならば訪れない場所に足を運び、語らない言葉を吐き出して、見せない表情を晒している。
「ご自分では気づいておられないかもしれませんが、別の道を模索しに来たのではありませんか?」
軍事用に限らず、HANOIの内面や彼らとの付き合い方に人間が向き合う動きが出てきている。
男が気づかぬうちに影響を受け、殺人兵器だった存在との関係に思いを馳せるのもおかしなことではない。
「それはない」
男は反射的に答えた。
彼の脳裏に大きな扉が浮かんでいる。それは汚れ、錆びつき、開く可能性は皆無だ。
時計の針は戻らない。
遠い昔に閉じた扉をこじ開けようとしても徒労に終わる。自らの手で閉ざし、ずっと放置してきたのだ。
「理解できん。優先的に使い潰す道具を思いやれだと?」
部下達を死地に赴かせるのが上官の仕事だ。人間もHANOIも命令のもとに戦わせてきた。
だが、扱いが違う。
軍事用HANOIを盾に囮にと使い倒し、人間よりも過酷な目に遭わせてきた。食料を節約するために植物を食わせ、栄養のある食べ物は人間の兵士に優先して与えた。HANOIは眠る必要が無いのだからと一晩中夜警もさせた。
人間が殺しがたい標的を始末させ、自爆装置までつけた。
そうすることで零れ落ちる命の数を減らし、生き残った者の精神の摩耗を防ぎ、任務を成功させてきたのだ。
味方を生かすために。
味方の人間を生かすために。
それが『正義』だった。
「貴様は殺人兵器。私はそれを使う人間だ。『ヒトでないのだから人間より先に死ね』……そう命じてきた過去は変わらん」
認めるわけにはいかない。道具として酷使してきた存在が、手を取り合うべきパートナーだということは。
「……確かに、過去を変えることはできません」
突き放す言葉に男は安堵したように息を吐いた。それみたことかと言わんばかりに笑みを刻む。
次の瞬間、男は目を見開いた。
「しかし、新たに作ることはできるでしょう。殺人兵器が変われたんですから、新たな自分や関係を構築することは不可能ではありません!」
自信をもって放たれた言葉に男は顔をゆがめた。
瞳に暗い光が宿る。苦しげな呼吸が漏れる。
泰然とした表情が剥がれ落ち、叫びが迸った。
「オレは疑問に思った事はなかったのに……! 今になって……!」
声は荒々しいのに掠れていた。
男は表情を繕おうとしているものの、握りしめられた拳が震えている。
己の歩んできた道が何もかも正しいと信じ切ることもできず、さりとて間違っていたと認めるわけにもいかず、境界線上で彷徨っている。
男が捨てて、目もくれなかったものが時を超えて牙を剥いた。ローランドを打ちのめした鎚が、今度は男の胸を叩いている。
所業が跳ね返った男の姿をローランドは笑う気にはなれなかった。
それ以外無いと信じて歩んできた道が揺らぐ感覚は、彼も味わったことがある。
己の中の『塔』が崩れる音は、とても恐ろしく響く。
男は呼吸を整え、わずかに俯いた。悄然とした表情を隠すかのように。
「何か分かるかと思って来たが……ますます分からなくなった」
「でしたら、またいらしてください。一緒に考えればいいですし、俺に分かることなら教えて差し上げますよ!」
男は返事をしなかった。
しばらく沈黙した後で顔を上げ、口を開く。
「……最後になるかもしれんから言っておく」
男は息を吸い、厳かな表情で告げた。
「ローランド。お前が市民の拠所であり続けることを、祈っている」
ローランドを殺人兵器のままだとみなしていれば出てこない台詞だ。
軍事用HANOIに兵器であることを求め、疑問に思わなかった男が、この瞬間平和に生きることを望んでいる。
重々しい声音に対し、ローランドは破顔で応えた。
「ありがとう。殺人兵器だった頃も、今も……貴方の無事を願っている」
常に大きく快活だった声は穏やかに低められ、男の耳に届いた。
男はぎくしゃくとした動きで背中を向け、去っていこうとして、足を止めた。
弾かれたように振り返り、叫ぶ。
「馬鹿野郎ッ!」
自分でも何を言っているのか分からないのか、男は口を押さえた。思い直して手を下げ、やけくそになったような勢いで言葉を吐き出す。
「鬼教官の指導はとっくに終わったと思っていたのに……またしごかれるんだな、クソッタレ」
男が降参するように両手を上げ、ローランドはにやりと笑った。