廊下で白い姿を見かけたハドラーは名を呼びながら歩み寄った。
「ミストバーン」
呼ばれた男――ミストバーンは足を止め、ハドラーを待つ。
ハドラーはミストバーンへと近づきながら状況を整理した。
改造完了直後にミストバーンの救出に向かい、勇者と戦って相打ちになった後帰還し、大魔王に謁見してオリハルコンの駒を下賜され、部下達を生み出した。
彼らを大魔王に紹介する間もなくザボエラの独断専行が報告され、部下の一人に命じて連れ戻した後、改めて親衛騎団のお目見えを果たし、ようやく慌ただしさがおさまったところだ。
ミストバーンは謁見の場にいたものの、まともに言葉を交わしたのは最後の会話になると覚悟した時以来だ。
今回彼に声をかけたのはサミット襲撃の結果を確認するためだ。
鬼岩城を破壊されたのはハドラーも知っている。
気になっているのは、それが原因でミストバーンが大魔王に叱責なり罰なり受けたのではないかということだった。
歩み寄ったハドラーが慎重に確認すると、危惧はあっけなく払拭された。
ミストバーンは簡潔に否定した後、噛みしめるような、喜色のにじむ声音で言葉を足した。
「バーン様は寛大な御方だ」
「……ああ」
ハドラーにも心当たりは大いにある。
失態を重ね醜態を晒した己でさえ許され、褒美まで賜った。信の置ける忠臣が心から反省し以後いっそうの奮闘を誓ったならば、責め立てることはしないだろう。
時間稼ぎを引き受けた相手が罰を受けずに済んだと知って、ハドラーは小さく息を吐き出した。
わずかに表情が和らいだものの、まだ彼の面から緊迫感は消えていない。
「お前には負担をかけたな」
大魔王からはお咎めなしとはいえ、忠誠心篤いミストバーンが今回の失態を気に病まぬはずがない。
鬼岩城だけでなく魔影軍団も蹴散らされたのだ。
ミストバーンはハドラーの頼みを聞き入れた結果、苦労したことになる。
憂慮するハドラーに対し、ミストバーンは恨み言をぶつける様子はない。
「引き受けたのは私の意思だ」
ミストバーンはそれだけ告げると口を閉ざしてしまった。
そっけない台詞の裏を理解したハドラーは微苦笑を刻んだ。お前が気にする必要はないと告げている。
ミストバーンは黙ってハドラーを見つめている。ハドラーも相手の視線を正面から受け止める。
以前は感情を掴めぬ眼差しにハドラーは背筋を寒くしたものだが、今は冷気ではない何かを感じている。
謁見前の自分の言葉を思い出し、ハドラーは遠くを見つめた。
他人に率直に感謝を告げるなど考えられなかった。それも、己が死ぬかもしれない状況で。魂を認める行為も同様だ。
慣れない言葉を贈った面映ゆさが今になって湧き上がるが、それを堪えつつハドラーは口を開いた。
「助けられた分を返しきれていない気がするな。何かオレにできることはあるか? 欲しいものがあれば用意する」
恩を返すためミストバーンを助けに駆けつけたとはいえ、明確な見返りをもたらしたわけではない。
時間稼ぎは上司としての命令ではなく個人的な頼み事に近かった。懇願と呼ぶ方が相応しいだろう。
ミストバーンが引き受ける理由は薄かった。世界会議を潰すとしても、ハドラーの覚悟はつっぱねてもおかしくなかった。ハドラー自身、大魔王に報告され処分されることを覚悟していた。
懇願に応じる必要のない相手が聞き入れて労力を払った以上、何らかの返礼が必要だろう。
そう考えて何気なく訊いてみたハドラーは困惑した。
ミストバーンの沈黙の質が変わった。放たれる空気が重くなる。
真剣に思索に耽っていると示すかのように、眼の光だけが一回り大きくなっている。
そんなに悩む質問か疑問に思いながらハドラーは答えを促した。
「あるんだな? 規模が大きいと叶えられんかもしれんが――」
「強くなれ」
ハドラーの言葉を遮るようにして、短い単語がのしかかってきた。
息を呑んだハドラーにさらなる要求が届く。
「戦って、勝て。……バーン様のために」
廊下の空気が張り詰め、温度が下がったかのように錯覚させる。
単純な言葉の奥で感情がうねり、漏れ出している。
重々しい言葉をぶつけられてもハドラーは怯まなかった。
「それはオレの望みだろう。お前への礼になるのか?」
ミストバーンは首肯した。
「お前には、欲が無いのか」
ミストバーンは今度は肯定しなかった。
消せない炎が心を焼くのを常に感じているのだから。
口に出さないだけ。絶対に叶わないと理解しているから諦めているだけだ。
強くなりたい。戦って、自らの手で勝利を掴みたい。
彼の全身が――存在を構成するモノが叫んでいるのに、その体のせいで辿り着くことはできない。借り物の器で勝利を重ねて得られるのは主君の役に立ったという喜びであって、奥底の渇きは癒えない。
ハドラーに告げたのは叶わぬ願望。彼に見出すのは、なりたくてもなれない姿。
魔界の住人であり大魔王に仕えてきた以上、戦士の一人一人に肩入れするほど感傷的ではない。ハドラーに関心を向けるのは、彼が大魔王から不死身の体を与えられたためかもしれない。
滅びから遠い生命。力溢れる肉体。恵まれた器は慢心を呼び、男は停滞に陥った。
男の姿を眺めるミストバーンの眼差しは冷ややかだった。体を張って戦う者への敬意はあったが、腹立たしさの方が大きかっただろう。貰い物の力を得意げに振りかざす者を好ましく思えるはずもない。
光る素質を腐らせていた男は、ある時驕りごと体を捨て去った。停滞を打破して勢いよく進み始めたのだ。
最強の肉体を預けられた瞬間からずっと同じ位置にいるミストバーンの目の前で。
ハドラーの決断を聞いた時ミストバーンの胸の内に湧き上がった感情は、様々な色に満ちていた。
今もなおそれらの正体を正確に判別するのは難しいが、色彩の一つは囁いている。
男がどこまで到達できるのか見てみたいと。
彼を通して泡沫の夢を見るかのように。
それは流れ星に願い事を唱える行為に近い。
自身の現状は何も変わらないのに、空を見上げて想いを込める。
ハドラーは説明があれば聞こうとしているが、ミストバーンは何を考えてそう告げたのか明かすつもりはない。
心を焦がす暗い炎は、ハドラーに知られたくない。知られるわけにはいかない。
主の秘密を守るためというのが最大の理由だが、それだけではなかった。
己を見つめるハドラーの眼差しが別の色に染まるのを見たくはない。
彼の眼に望むのは――。
「……ハドラー」
ミストバーンは何を言うか決めかねたまま呟きを漏らした。
彼はハドラーの戦う姿を思い浮かべた。
命を燃やして魔炎気を噴き上げる、磨き抜かれた武器のごとき体躯。闘志を宿す鋭い目。
魔炎気を使い続ければ近いうちにハドラーの体は限界を迎えるだろうが、ミストバーンは止める気はなかった。
流星のように消えてほしくはないが、命を燃やしながら駆けることをやめては、流星は流星でなくなってしまう。
「そのまま進み続けろ。……ずっと……」
彼に願うとすれば、一瞬の輝きが少しでも長く続くこと。
独り言に近い声音だったがハドラーには届き、彼は目を見開いた。
ミストバーンの台詞は残酷と言えるかもしれない。安息もない戦いの道を歩むよう求めているのだから。
過酷な要求を突きつけられたハドラーの返答は、楽しげな笑みだった。
ミストバーンが訝しげな視線を向けると、彼は瞼を閉ざして答える。
「道を認められるのは嬉しいものだと思ってな」
愚かと笑われようと歩みを止めるつもりはないが、肯定してくれる者がいるのは支えになる。ふと空を見上げた時、瞬く星を見つけたかのような。
微かに頷いたミストバーンへと、ハドラーはゆっくり目を開けて尋ねる。
「オレが戦い続けること以外に無いのか? 望むものは」
「もう貰っている」
ミストバーンの脳裏に浮かぶのは、謁見前のハドラーとの会話。
誰からも理解されずとも貫く気でいる生き方を肯定されたのは、ハドラーだけではない。
ハドラーの言葉は夜空を切り裂く光条のように落下した。霧深い魂の中心、心の深層へと。
心当たりがなく目を瞬かせるハドラーを眺め、ミストバーンは笑みを漏らした。