SS『Ancient Grimoire』
※竜の騎士親子に勝ってしまったハドラーとミストバーン、キルバーンの会話。
重い荷物を床に落としたような音がした。
たくましい体躯の男がひび割れた床に膝を着いたのだ。
「ぐ……」
ごぼりと血液が吐き出され、荒れた床面に染みを作る。
男の全身には無数の傷が刻み込まれていた。四肢や首筋は今にもちぎれそうで、鎧のような筋肉を備えた胴体にも深い刺し傷がある。
流れ出る血が深緑の肌を染め上げ、異様な化粧を施していた。
様々な生物を組み合わせたかのような姿は、人間ではない。魔族とすら呼べないかもしれない。
彼の名はハドラー。
宿敵との戦いと、その決着のためだけに、自らの体を捨ててでも強くなることを望んだ男だ。
たった今、彼は目的を達成した。
最大の敵である勇者ダイと、その父親である竜の騎士バラン。
最強の親子を相手に、勝利を手にした男の表情は晴れない。
ボコボコという音が生じ、泡が傷口を覆う。再生までしばらく時間がかかるだろう。
緩慢な動きで立ち上がった男は、後方へと体を向けた。
いつの間にか、ハドラーの背後には男が立っていた。
魔軍司令時代の部下であり、大魔王の信厚き忠臣。
主君の名を冠する片割れ――ミストバーン。
「……終わった気がしない」
ハドラーの呟きを予想していたのだろう、ミストバーンは肯定も否定もせず佇んでいる。
ハドラーは違和感の正体を探るべく首をひねる。
原因は、竜の騎士達の挙動にあった。
苛烈であるはずの攻撃はぬるく、必殺の気迫に欠けていた。
親子の戦いぶりが精彩を欠いていた理由に、ハドラーが辿りつけるはずもない。
彼の体内に凄まじい威力の爆弾が埋め込まれていることも。
爆発を避けるため、二人が加減せざるを得なかったことも。
本人だけが知らぬことだった。
勝負を見守っていた影の男はただ沈黙を続ける。
戦士にかけるべき言葉は分かりきっている。
単純に、お前の力が敵を上回ったのだと告げるだけでいい。
それで納得しなくても、理由を並べ立てることは可能だ。
急造の組み合わせゆえに、連携が稚拙だった。
どちらも強大な力を持つため、同士討ちを恐れた。
実力者の一人である彼の口から出れば、気休め程度の説得力は与えられたかもしれない。
彼は、何も、言わなかった。
「互いを想う心が足枷となったのだ。殊に、父から子への、な」
代わりに響いたのは大魔王の声だった。
離れた場所に声を届ける術を行使しているようだ。
姿勢を正そうとしたハドラーを押しとどめるように、続きを口にする。
「巡り合うことはないと諦めていた相手が現れ、傍にいる。単身ならば切り抜けられる状況も――」
そこでバーンは言葉を切る。この場におらずとも、薄く笑う様子が見える口調だった。
ハドラーの表情は訝しげなままだ。
「力を倍増させて攻撃するのでは?」
「好ましい影響ばかりとは限らん」
バーンの言葉は、間違いではない。
他者を庇おうとしたために竜の騎士が敗れたのは事実。
全てを明かしてはいないが、嘘を言ってもいない。真実を織り交ぜているため否定しようもない。
どんな事態を防ごうとしたのかを伏せているだけだ。
「出会えるはずのない相手だ。望みを優先し、喪うことを恐れ、平静さを欠くこともあろう」
声に込められた確信を感じ取ったのか、ハドラーはようやく納得したようだった。
ひとまず疑念がおさまったハドラーは上空を仰ぎ、息を吸う。
動こうとしたハドラーを制したのは銀色の掌。
ミストバーンが、行動を止めるように手を伸ばしたのだ。
「まだ使徒が残っている」
戦いに向かおうとするハドラーに対し、ミストバーンの視線が指し示しているのは、ふさがっていない傷の数々。
「だが――」
怪我が癒えていないのは把握しているが、引き下がる気はないハドラーに、陽気な声が降り注ぐ。
「もうキミの見せ場は終わったんだよ」
朗らかな口調で残酷な台詞を吐いたのは、大魔王の名を冠するもう一人。死神と呼ばれる人物――キルバーンだ。
影を縫うかのように、地面からその身を現して。
「あとはエンディングを迎えるだけ、でしょ?」
キルバーンは同意を求めるようにミストに言葉を投げかける。
ミストバーンは無言だ。
内心で同意しているのか、否定する気持ちがあるのか、態度から読み取ることは難しい。
ハドラーが最も欲していた、『心から認めた宿敵との、正々堂々たる戦い』と、誇れる勝利を得ることは永遠に叶わなくなった。
どれほど戦ったところで彼の望む物は手に入らない。
「あ、祝福がまだだったね。おめでとう」
「おめでとー!」
軽い口調の死神と小人に構わず、ハドラーの眼差しは険しい。次の戦いを見据えているのだろう。
竜の騎士親子を葬った功績で十分だ。立派な戦果をもって、「有終の美」とすればいい。
そういった言葉を告げぬまま門番のごとく佇むミストバーンに、ハドラーは導き出した答えを告げる。
剣の切っ先を突きつけるかのように。
「奴らに教えられたのだ。最後まで戦い抜くことを」
己を変えた相手だからこそ、この手で終わらせる。
覚悟のにじむ声に、熱を宿さない手が下ろされた。
「そうは言っても、独り占めはずるいんじゃないかなあ? 手柄とかじゃなくてさ。分かってると思うけど」
ミストバーンから視線を外さないままのハドラーに、キルバーンは茶目っ気たっぷりに指を動かしてみせる。
「彼もキミと同じ気持ちだよ、きっと。バーン様に――」
「勝利を……か」
地位や名誉を求めず、己を評価してくれる相手に働きで応えたい心情も理解できる。
決着をつけたいのは自分だけではないと分かっている。
だが、使徒達との決戦を任せきりにするつもりもない。現在部下が戦っているのだ。
「ならば……ともに捧げよう」
偉大なる主に、勝利の美酒を。
返事は、なかった。
ハドラーの目に迷いはない。
主のために戦えたことを誇りに思いながら息絶えるだろう。
そう予測する影の男の心の内には黒い霧がわだかまっている。
(おかしな話だ……)
神々の作り出した調停者を葬り、障害は完全に刈り取られる寸前だ。
尊敬する戦士とともに戦いを終え、主の宿願が叶う時が近づいている。
喜びこそすれ、靄の生じる状況ではない。
自身の感情を分析しきれず、もどかしさを味わう彼の脳裏に今までの軌跡がよぎった。
――始まりは、怒りと憎しみだった。
彼の正体はどす黒い思念や暗黒闘気の集合体。
太古より魔界の住人が殺意を込めて記述した、書物のようなものかもしれない。
持ち主に力を与える代わりに魂を砕き、意のままに動く人形へと作りかえる様は、呪われた魔導書のようだから。
鍛え強くなれる者への羨望や敬意も霞むほどに色濃く記されていたのは呪詛、憎悪、怨恨。
主と出会わなければ、己が身を呪う想念に心が塗りつぶされていたかもしれない。
能力を肯定されたことで、黒々とした紙面が塗り替えられた。
憎悪や殺意はありふれていた。
それらを向けられたところでいちいち何かを感じることはない。どす黒い感情が彼を研磨するのだから。
侮辱に苦いものがこみ上げた経験もあった。動じなくなる日は永遠に来ないだろう。それでも、諦めに近い慣れはあった。
今味わっている感情は、侮辱された時のものとは異なるようだ。
昔から刻まれていた、戦士への敬意や彼らの死を残念がる気持ちでもない。
ハドラーが真実に気づかず戦い抜こうとしている状況を一言で済ませるならば、「好都合」だろう。
ハドラーは大魔王から離反せず、決別を告げることも手を下す必要も無い。
ハドラー本人にとっても望ましい展開と言える。
戦いを穢されたことを知り、悲嘆と絶望に塗れて事切れるよりは輝かしい最期であるはずだ。
彼は、駒として処分される寸前だったと夢にも思わず、死へ向かう。
覚悟を認めて機会を与えたのだと感謝し、決意を尊重したと信じたまま。
(バーン様に対して。そして――)
尊敬する戦士からの、感謝と信頼。
魔の書に星光を灯したものが、今はページを仄暗く染め上げていた。