SS『Blood&Darkness』
※ハドラーが生きたままダイ側につき、ミストが相手をした後。
咳き込むと、口を押さえた掌に血が付いた。
ひび割れた床に血だまりができている。
そこに映るのは、精悍な面。
深緑の肌には黒い痣が広がっている。全身を絡め取るかのごとく伸びる黒い紋様が、今にも男を呑み込みそうだ。
男の名はハドラー。
以前地上を席巻した魔王として、最近まで魔軍司令を務めていた魔族として、多くの者の記憶に刻まれている。
彼は、残された時間を宿敵である勇者ダイとの戦いに費やすはずだった。
運命を変えたのは、大勇者アバンの帰還。
アバンはダイとハドラーが決闘する少し前に姿を現し、ぶつかりあう宿命を変えた。
彼がもたらしたのは、延命術。ハドラーの朽ちゆく肉体をこの世に留める方法だった。
尤も、奇跡的な回復は望めない。得られる時間はごくわずかだ。
それでも、彼にとっては十分だった。
ダイ達と共闘した後に一騎打ちができるだけの猶予が与えられたのだから。
ハドラーとて勇者への加勢を即決したわけではない。アバンが死んでいなかったとはいえ、何度も使徒達と戦いを繰り広げてきた。今更味方するのかと責められても反論はできない。誰に言われずとも、彼自身が一番わかっている。
だが、アバン本人からも共に闘おうと手を差し出されては、断れるはずもない。消耗につけ込むような形で命を奪ったことを悔やんでいたのだから。
最終的に加勢を決めたのは、最後の戦いに最高の形で挑むため。
大魔王の陣営がいかなる手段で横槍を入れてくるかわかったものではない。直接妨害せずとも、両者の激突の傍らで地上に魔手を伸ばすかもしれない。世界の行く末を案じながらでは、心優しい少年も力を出し切れないだろう。
憂いを拭ってから、生涯の敵との決着を。
それがハドラーの決断だった。
勇者と戦う。
その願いは、いびつな形で叶うこととなる。
血のこびりついた唇が動く。
「戦わねば。我が主――バーンさまのために」
男の額には黒い霧が集い、双眸のような光を湛えていた。
男は、ハドラーであってハドラーではない。
肉体は紛れもなくハドラーのものだが、表に出ているのは別人の意識だ。
「今、状況は」
声に焦りをにじませつつ、主の座す方角を仰ぎ見る。身を案じるかのように。
この状況で大魔王バーンを主と呼び、戦おうとする人物は、ミストバーン――ミスト以外いない。
大魔王の陣営と勇者一行の衝突は混沌とした状況を招いた。
戦いの場は分かれ、ハドラーがミストの相手を務めた。
激突の果てに後者が勝者となった。精神をねじ伏せ、肉体を乗っ取ることで。
彼は体の動かし方を確かめるように、右手を目の高さまで持ち上げる。五指から闇が立ち上り、炎のように揺らめいた。
崩壊が迫っている身でありながら、奥底から力が湧き上がる。
蘇生させる際に与えた暗黒闘気の影響か、この器は本体とよく馴染む。暗黒の力が増幅される。形無き体を構成する闇がより深く、濃密になったかのようだ。
全力を出せば勇者一行を仕留めることも可能だろう。
拳に力がこもり、強く握られる。
「……長くはもたんな」
主の役に立てるという歓喜と安堵。磨き抜かれた武器のごとき体を手に入れた高揚。
沸き立つ心とは裏腹に、事実を確認する声は静かだった。
全ての力を出し尽くす。その負荷にこの肉体は耐えられない。ただでさえ少ない残り時間を削り取られ、無残な崩壊を迎えるだろう。
滅びの刻は近い。早いか遅いかの違いだけで、その差も微々たるものだ。次に主の体を預かるまでは到底もたない。自らの手で鍛え上げたスペアを入手するまでの、仮初の器に過ぎない。
「ならば――」
やるべきことは決まっている。
壊れるまで力を引き出し、限界を超えて酷使する。駒として、道具として、使い潰す。
力を存分に振るえる肉体は貴重だが、温存はしない。適合したからこそ、最大限に活用しなければならない。
冷酷な決断に些かの躊躇もない。
忠誠を優先し、信頼を向けた相手を切り捨てることを選んだ。今までも、これからも、取る行動は変わらない。
決意を示すかのように眼差しが鋭くなり、前方を見据える。
温存を考えて勝てる敵ではない。
それを気づかせたのは、他ならぬハドラーだった。
彼は、ミストの能力を知る前に憑依され、そのまま魂の潰し合いという異様な戦場に引きずり込まれた。虚をつかれ、大幅に不利な状況に陥ったにも関わらず、激しい抵抗を見せた。
抵抗どころか、圧倒していたとすら言えるかもしれない。
勝敗を分けた要因は何だったのか、勝者たるミストも未だに理解できていない。
理解できたのはただ一つ。
捨てねば勝てぬという事実のみ。
使徒に感化され、強くなった男の戦いぶりから、そう悟った。
ミストの狙い――意識を塗りつぶして傀儡にする――を知ったとき、ハドラーの精神に波が広がった。
波紋は内にいる者を揺さぶり、かつて投げかけられた問いを想起させた。
『おまえにとっても……オレはやはり駒にすぎなかったのかッ!?』
本来ならば、影にとって即答できる質問だった。
どんな人物だろうと、忠誠を捧げ、数千年の間守り抜いてきた主とは比べるまでもない。重さがまるで違うのだから、天秤にかけるという発想自体浮かばない。
敬意は敬意。忠誠は忠誠。尊敬すべき戦士であることと、切り捨てるべき道具であることは両立する。
ハドラーに問われた時も、「そうだ」の一言で片づくはずだった。
ほんの一瞬、返答が遅れたのは、彼にとっても予想外だった。
“処分”しようとしているのだから、否定の余地はない。駒ではないと答えては己の行動と矛盾する。主に背き、信念を裏切ることになる。
「その通りだ」と答えて終わるはずだったが、そうならなかった。
己の見方を問われているとわかっていても、主の意思をもって答えとした。
即座に肯定しきれなかった理由は相手に伝わっていないが、明かす気もなかった。
全てを懸けた願いを踏みにじっておきながら理解を求めるなど、虫のいい話だろう。
引きずられるように視線が落ちる。
床の血だまりに映る顔を見て、苦痛は伝わらないはずの面がゆがんだ。
肉体の持ち主は生きている。
影が肉体を手放せば、双眸が虚空を見つめるだろう。
だが、その瞳はもう何も映さない。焔のごとき闘志も宿さない。
彼が全ての力を注いで、魂を消し去ったのだ。
一時的に封じるにはあまりにも苛烈で、焼き滅ぼされてしまいそうだったから。
相克の際の熱量を思い出したミストの脳裏に、ある単語がよぎる。
「熱い魂……か」
二度と聞くことのない言葉を、噛みしめるように呟く。
「それはお前にこそ相応しい言葉だろうな。……ハドラー」
微かに俯いて発せられた台詞は、賛辞にしては静かだった。
他の方法で葬ったならば、別の言葉を用いて、率直に敬意を表しただろう。
称賛以外の感情が声にこもったのは、魂を消して人形にしたからに他ならない。
血だまりを踏みしめると、映る顔が消えた。
口の端から流れる血を拭い、彼は歩き出した。