豪奢な寝台の枕元に人影が一つ。
黒い霧が白い装束を纏ったような姿の持ち主が、広いベッド横たわる者を見下ろしていた。
暗い視線を浴びるのは枯れた老人だ。
もしかしたら、このまま目を覚まさないかもしれない。
呼吸や鼓動が止まってしまうかもしれない。
そういった仮定が浮かびそうなほど深く眠っている。
異形が佇んでいるにも関わらず眠りが妨げられる気配はない。
眼差しを注ぐ者に敵意が存在しないためだ。視線の中に害意や殺気が混じれば瞬時に目を覚まし、対処するだろう。
標的を観察する暗殺者のような構図のまま、時間が経過していく。
眠っている老爺の名は大魔王バーン。
主の姿を飽くことなく眺め続けているのが大魔王の部下、ミストだ。
ミストは大魔王と出会い、守り続けることを決意した。
仕える相手――生きる意味を見出し、空虚が埋まった彼の眼光は陰っている。
ミストにとって、今まで誰が殺されようがどうでもよかった。
おそらく自身も例外ではない。
器を取り換え続けたのも、戦い続けたのも、本能に衝き動かされたため。
消滅することになっても溜息を吐いて終わったかもしれない。
これからはそうはいかない。
俯き加減のミストの眼の光が、自問によって微かに揺れる。
自分の身を守ることすらろくに考えなかった者が、誰かを守り抜くことができるのか。
彼は無言で拳を握りしめる。
ミストの視線は主君の面から外れない。
「……ト。ミスト」
主の眠りを妨げないように声を潜め、自分の名前を口内で転がしてみる。
慣れない舌触りがこそばゆい。
彼にとっては初めての経験だ。名を持ったのも。誰かに呼ばれるのも。
主との出会いを振り返ったミストはわずかに目の光を瞬かせる。バーンが起きていれば、部下の双眸に喜色が宿ったことを見抜いただろう。
天命を告げられた時、誰にもなれなかった影が、ようやく何者かになれた気がした。
ミストという存在は、大魔王に出会って生まれたようなものかもしれない。
希望もなく彷徨うだけの旅路が終わった瞬間を、心を照らした輝きを、彼は一生忘れない。
思い出すたびに黒い霧の奥が温かくなる。何かが燃えるように。
ミストが熱の高まりを感じると同時に、どこからか冷気が吹き込んでくる。
今まで知らずに済んだ感情が心を浸食し、亀裂を生じさせる。
主君を守れなければ、彼に残されるのは凍った体だけ。
彼はぶるりと身を震わせた。衣の下に怪物じみた力を秘めているとは思えない、余裕のない所作を見ている者はいない。
『大魔王バーンをも上回る最強の青年』は虚像だ。
どこか暗い眼光は一点に据えられたままだ。食い入るように主の面を見つめている。
希望の裏には絶望が潜んでいる。光が強まれば闇も深くなる。
出会いの喜びを噛みしめるほど、彼は反対のものに怯えずにはいられない。
主に全てを捧げると決めた瞬間、安らかな最期は喪われた。
彼は主君より先に死ぬことも後に死ぬことも許されない。
彼が求め、彼に求められるのは、主に尽くし、ともに生き続けることのみ。何千年も何万年も永久に。
もし、このまま相手が目を覚まさなければ。
呼吸や鼓動が止まってしまえば。
他愛のない仮定も、ミストにとっては絶望の権化だ。
喪失の瞬間目に映る世界がどのように変わるか、彼には容易に想像がつく。
輝く世界は大きく裂けて、二度と元に戻らない。
彼は、大魔王に仕えるのが天命だと受け入れた。滅びから遠く永遠に近い命はそのためにあるのだと、答えを見つけられた。
それがなくなれば、彼が存在する理由は。能力の価値は。
「……私を、役立たずの――にしないでください」
離別を遠ざけようとする祈りは誰にも届かない。
ミストはようやく視線を外し、闇に浸る思考を止めようとした。
彼が長い夜に慣れるには時間がかかりそうだ。