SS『In the choice between good and evil』
※ミストバーンと言葉、沈黙について。
言葉など要らない。
そう思うようになったのは、いつの頃だったか。
“彼”が生まれたのは暗黒の世界で渦巻く瘴気の中。
誕生した際に響いたのは祝福の言葉などではない。体を構成するものと同じ感情だった。
「憎い」
「滅びろ」
「恨めしい」
刺々しい思念に包まれようと疑問や嫌悪は抱かなかった。
それどころか、空気に引きずられ、共鳴していたかもしれない。
偽りの生命である身にも、何も感じなかった。
思考が明瞭になるまでは。
自我を持ち、能力は同種の魔物の中で最上位。
寿命は無限に近く、器を取り換えることで労せずして強くなれる。
その気になれば魔界の勢力図に変化をもたらすこともできたかもしれない。他者と言葉を交わし、働きかけ、関係を築いて。
影は、流れるだけだった。
「貴様――」
呪詛のこもった呻き声は唐突に潰れた。
「……」
吐き捨てられた台詞を顧みることなく、影は魂を砕いた手を握り込んだまま虚空に視線を留めた。
血生臭い戦闘も、敵の体を乗っ取り魂を消去するおぞましい行為も、退屈な日常と化していた。
その間言葉を投げかけることはない。
淡々と「作業」を繰り返すだけだ。
どんな考えを持ち、口に出そうと、相手の反応は大差ない。
いくら鍛え強くなる者への敬意を語ったところで、やるのはそれを穢すような行為だ。
寄生して、他人が積み上げた成果を掠め取る生き方は変わらない。変えられない。
何を語ろうと侮蔑が返ってくるならば黙っている方がいい。
想いを表現するのは虚しいだけだと諦めていた。
会話に意味が無いと判断してから、影にとっては永い年月が経った。
飲み込んだ言葉は泥となって堆積してきた。
粘ついた塊が増える中で口はますます重く閉ざされ、思考までもが鈍っていく。
心を埋める錆が押し流されたのは、主――大魔王と出会った時だった。
光に焼かれるかのごとき衝撃は痛苦に近い。
影は歓喜どころか恐怖すら感じながら跪き、感情の奔流を形にする。
「貴方に……貴方様に、忠誠を」
声が震える。
言葉を発したい、心の内を伝えたいという衝動が膨れ上がり、弾けそうだった。
やっとのことで絞り出した声は揺れていたが、大魔王は嘲ることなく聞いている。
足りない言葉を察しているのだろう。王は満足げな笑みを漂わせながら受け入れた。
影の内部にようやく湧き上がった、語りたいという衝動。
それは主との出会いの後も消えなかったが、発散する機会は限られていた。
大魔王の秘密を守るため、沈黙を要求されたからだ。
己の思想や感情を表現したくなったのに、できない。
浮かび上がった言葉を押しこめるのは窮屈で、苦しい。
だが、不快ではない。
出会う前と同じく無言の時間が続いても、口内に満ちる味は異なっている。
見てくれは同じだが、天秤にかけずとも、どちらが重いか考えるまでもない。
沈黙を強いられているとはいえ、常にだんまりだったわけではない。
気の合う相手と会話する時もあった。
「やぁミスト」
友との語らいがもたらす彩りを教えたのは、残酷な死神。
彼と語り合うことをどう感じるか。何故性格が全く異なる相手に友情を抱いているのか。
影にとって、それらを説明するのに長々と言葉を費やす必要はない。
「久しいな。キル」
声の弾みが微かでも、死神は正確に読み取っている。相手に楽しむ心が伝わっていることを、影も知っている。
舞台が魔界から地上へと移り、沈黙を旨とする中で、趣が異なる時もあった。
その一つが、戦士から魂を認められ、感謝された時。
諦念でも命令でもなく黙り込んだのは初めてだったかもしれない。
言葉を失い、まともに返事できなかった。
もう一つは、その戦士を葬ろうとした時。
己は道具か。駒に過ぎなかったのか。
そう問われた影が返答するまでの一瞬、空気が沈んだ。
戦士に対してそうしたように、彼は選び続けるだろう。
量るまでもないものも、心の皿を傾けるものも、切り捨て進んでいく。
沈黙と沈黙の天秤を携えて。