SS『Vector to the Heavens』
※ハドラーとミスト、二人の残滓の会話。
「大魔王さまのお言葉はすべてに優先する……!」
影の男からの無情な宣告に、戦士は身を震わせながら俯いた。
誠意を見せてくれたと思った相手が、己の命を奪おうとしている。
認められたと思ったのは、ただの錯覚だったのかもしれない。
相手の中では、自分は取り換えのきく道具――用が済めば忘れ去る駒にすぎないのかもしれない。
手を下しに来た男は内心を明かそうとせず、冷酷な言葉を突きつける。
戦士からの信頼を裏切ったのは事実だ。
戦いを穢し、生きがいを奪い、敵ごと葬ろうとしている。
この状況で駒や道具ではないと否定したところで、あまりに白々しく、ただただ虚しい。
大魔王への忠誠を優先し、残酷に、理不尽に、一方的に切り捨てようとしているのは事実なのだから。
閃光が一帯を飲み込み、絆は終焉を迎えた。
深緑の肌に黒い痣の浮かぶ男が、周囲を見回した。
視界に映るのは暗闇ばかり。
見渡す限り不毛の大地。暗い空には輝きが無い。
魔族の故郷――魔界を思わせる空間に、呪文を用いることもなく浮いている。
「ここは……」
前へ進もうとすると、氷を踏むような頼りなさで体が動く。周囲の景色が滑ると言った方が近いかもしれない。
魔王として地上を席巻した身でありながらその肩書を捨てた男の耳に、暗い声が届いた。
「お前と再び会うとはな。……ハドラー」
地の底から湧き上がるような声に、ハドラーは面に驚愕を浮かべながら振り返った。
やや下方で虚空を踏みしめているのは、黒い霧が凝集し、青白い衣を身に纏ったような人物だった。
彼は魔王軍の重鎮であり、ミストもしくはミストバーンと呼ばれていた。ハドラーのかつての仲間であり、今は敵となっている。
ハドラーは一瞬身構えたが、すぐに警戒を解く。
ミストバーンから敵意は感じられないためだ。
「オレ達は何故ここに?」
「……わからん」
ハドラーも、ミストバーンも、まるで夢の中にいるかのような奇妙な感覚に包まれていた。
それも当然だろう。どちらも命を落としたはずなのだから。
「光あるところ影あり、ということかもしれんな」
事情も説明せず一人で納得したように呟くミストバーンに対し、ハドラーは沈黙している。
ハドラーは好敵手アバンの腕の中で灰となり、ミストバーン――ミストは弟子ヒュンケルの体内で光の闘気の奔流に呑まれた。
ミストは無数の戦いから生まれた暗黒闘気の塊。ハドラーはミストバーンの暗黒闘気で復活し、超魔生物と化した後は炎の暗黒闘気――魔炎気を纏って戦った。
前者はヒュンケルの中で光に消え、後者は兵士ヒムに生命を与えた。
ヒュンケルとヒムという二つの光の邂逅が、互いの内部に宿る影を伸ばし合い、顕現させたのかもしれない。
「この場を脱出し、アバンや弟子達を抹殺するつもりか?」
問い詰めるような眼差しにもミストバーンは動じない。闇が凝固したような静かな声が響く。
「それができるならばとうにやっている。……お前も感じるのだろう?」
あがける手段があるならば、ミストは主のために実行しただろう。
薄らと感じる。
全てが曖昧なこの場所は現実と隔絶していて、二人とも現世に影響を及ぼすことは叶わないと。
「ここにいる我々は……片鱗にすぎん」
ミストは理想の器たる弟子の中で、ハドラーは最も認めた男の腕の中で息絶えたという結末は覆らない。
この世界はうたかたの夢。二人は本体から切り離されたごく一部で、頼りない光に照らされ伸びた影のような、儚い存在だ。
どちらも残滓のようなもので、時が過ぎれば消えるだろう。
できることと言えば、残された時間、この空間に漂うことだけだ。
ハドラーが無言で周囲を見つめると、世界が緩やかに姿を変えてゆく。
本物の魔界にいるわけではなく、光の闘気が照らし、浮かび上がらせた心の断片から形成された空間にいる。
おそらくはここにいる者の思念を映すのだろう。
影と戦士の邂逅によって、感情の波紋が広がる。刺激を受けたことによって空間が変化しつつある。
いつしか光景は大魔王の御前に変わっている。大魔王と、死神と、影の三者が何かを見つめている。
「あれは……」
ハドラーの表情が動く。
自分と竜の騎士親子との戦いを観察していた時のものと知ったのだ。
ミストバーンの記憶をもとに、当時の状況が再現されたらしい。
大魔王が立ち上がるのとほぼ同時にミストバーンの姿が消えた。大魔王と死神が見つめる映像の中に現れ、会話した後素顔を晒す。
閃光が弾けた時、ハドラーの喉から息をのむ音がした。
譲れぬものを壊されかけた状況の再現に、さすがに平静ではいられない。
しかも、今回は裏側を見せられたのだ。
ミストバーンは大魔王の指示によって派遣されたとばかり思っていたが、映像は違うと告げている。
ハドラーから視線を向けられても目を逸らさずに、ミストバーンははっきりと答える。決別の時と違ってハドラーの下方に浮かび、睨むような眼差しで。
「お前を殺そうとしたのは、大魔王さまのご命令があったからではない」
言葉を一旦切り、吐き出す。何かを断ち切ろうとするかのように。
「自ら赴いたのだ……!」
声には、恐ろしいほどの気迫が宿っている。
「そう、か」
ハドラーの呟きには苦いものが混ざっていた。
自分は相手にとって、誇りや信念を踏みにじる行為に命令すら必要としない程度の存在にすぎなかった。
駒にすぎないのかと問うた時、返答までにわずかな間があったのは、葛藤を示してはいなかったらしい。
ハドラーの唇に皮肉げな笑みが漂った。
(今更何も変わらんだろう)
使徒達を殺されるのが許せず、処刑を受け入れる気にもなれず、敵対を選んだ。大魔王を倒す寸前まで追い詰めたものの刃は届かず、逃げ延びた。
譲れない事情があっての行動だが、相手がそう受け取るかといえば話は別だ。
大魔王への忠誠を貫いてきた腹心の部下にとっては、どんな理由があれ絶対に許せない行為だろう。
それまでの評価が一転し、憎悪を燃やしてもおかしくない。
そもそも、認めていたのも、あくまで便利な武器や道具の範疇にすぎなかったのかもしれない。用済みになればすぐに捨てる程度の。
自分を始末しようとしたのが大魔王からの命令だったか、本人の意思によるものかなど、今となっては大して重要ではないはずだ。
素顔を目にして秘密に近づいた自分が生き延びた時、彼は苦々しく思ったに違いない。邪魔者に対して一刻も早い死を望んでいたはずだ。
(わかっていたことだ)
優先するものが異なる以上、共に歩むことはできなかった。遠く隔たったままどちらの道も終わりを迎えた。
その距離が思っていたよりも遠かっただけの話だ。
這い上がる過程を魔王軍側で目にした相手が、己の戦いや覚悟を認めていたと思いたいのは――心を沸かせる対象でこそないが、高みを目指す助けとなった者との対等な関係を望むのは、ただの感傷なのだろう。
全てが終わった後の満足感が生んだ、心のさざなみにすぎない。
続いて超魔生物化の改造を施されていた場所が映され、ハドラーの胸に懐かしさがよぎった。
意地だけを残し、恥も外聞も捨てて頼み込んだ結果、ミストバーンは聞き入れた。
無口な男の声の奥底に温度を感じたのは、この時が初めてだったかもしれない。底知れないと疎んできた相手の印象が変わり始めたのもこの頃だった。
関係の終焉が映された後に、始まりが描かれる。上映の順番に残酷さを感じながら、ハドラーは疲れたような表情を浮かべた。
「この時すでに黒の核晶があったのだな」
ハドラーの発した黒の核晶という単語に引きずられたのか、映像がぐにゃりとゆがみ、別の像を結ぶ。
響いたのは、途切れがちの声。
『く……黒の核晶を爆発させるのですか……?』
誰の声か分かっているはずなのに、ハドラーは一瞬判断に迷った。
こんな声音で喋るところは初めて聞いたのだから。
(ミストバーン……?)
信じられない心地で見ていると、時間軸が最初の映像とほぼ同じであることに気づいた。
爆破に赴く前の会話のようだ。
黒の核晶に魔力を送ろうとする主に、ミストバーンが躊躇うように訊いたのだ。
ハドラーは目を見開き、凝視する。
幾度も「大魔王さまのお言葉はすべてに優先する」と告げていた彼が、大魔王の行動に疑問を呈する姿は想像できなかった。
それも、こうすべきだという進言の類ではなく、やめてほしいと懇願するかのような。
用済みだから簡単に消そうとした、大魔王が道具と見なしたから疑問は一切持たずに倣った――そんな風には見えない。
またもや黒の核晶に関する場面が浮かび上がる。
爆弾が埋まっていると知りながら何もしなかったと語り、笑みを漏らすザボエラに、ミストバーンが指を突きつける。
『カスがっ! おまえごときにハドラーを卑下する資格はない……!』
大魔王に逆らい、魔王軍を去った者に対する言葉とは思えない。
傍らの男に視線を向けると、胸中を知られるのが予想外だったのか、口元を手で押さえている。
(どういうことだ?)
命じられてもいないのに始末しようとしたのは事実だが、その後の彼の言動は、己が出した結論と食い違っている。
世界はゆっくりと姿を変えていく。
映される場面は断片的で、時間軸も場所もバラバラだ。
それらを見る両者の双眸に、様々な感情の色が去来する。
生命を受け継いだと主張したヒムに対して怒りを露にしたミストバーンの姿に、ハドラーは違和感を覚えた。
(何故否定する……!?)
大魔王が気に入るか。魔王軍にとって役に立つのか。そういった観点で評価すると思っていたが、それならば激高する必要もないだろう。
あの激情に「評価」という言葉は似つかわしくない。
(まるで――)
それらしき言葉をかけられたことはほとんどない。
黒の核晶が爆発する直前、薄れゆく意識の中で聞いたような気はしたが、確信は持てなかった。
あの時はバランもいた。言い回しからは、大魔王が一目置いたから評価したように感じられた。単純に、散りゆく命への憐れみを見せただけではないかとも思った。
芽生えた違和感は明確な疑問へと変わり、次第に大きくなっていく。
ハドラーの最後の戦いが映った時、影の男の纏う空気が変わった。
目を光らせ、食い入るように見つめる様を見れば、どれほど関心を向けているか明らかだ。無意識に力がこもるのか、時折拳が握られる。
心、体、技、闘気――全ての力を出し切った闘い。
それを一心に見つめる姿からは、何者であろうと侵せない空気が放たれている。
全てを見終えた後、影はしばらく動かなかった。
余韻を味わうように目の光を細め、向き直る。
無言で視線をぶつけられたハドラーは、相手と同様に一言も喋らず受け止める。
胸に生じた疑問が融けていく。
沈黙の仮面越しに伝わってくる気がしたのだ。
爆破前の、ただの駒にすぎなかったのかという嘆きに対する答えも。
ザボエラやヒムに怒りを露にした理由も。
今直接告げられずとも、行動が物語っていた。
空気が張りつめる中、ミストバーンが口を開く。
「あの時の行動に悔いはない。天秤にかける相手がバーン様ならば……!」
彼の発言は黒の核晶を爆発させたことを指している。
迷いのない口調に、ハドラーは予想通りだと言いたげに頷く。
「……だろうな」
必要ならば、ミストバーンは何度でも同じことをするだろう。自らの手で、自らの意思で、葬ろうとするだろう。
ハドラーもそれを受け入れようとは思わない。
その点において両者の距離は縮まらない。
ただ、根底に流れる感情を知っただけだ。
殺しに来たのは価値の軽さの証――そう考えたが、違った。それだけだ。
(天秤……か)
誰かと主の重さを比較する事態が、相手の中でどんな意味を持つかわからない。おそらくは、選ばなかった方を「軽い」と表現して終わる話ではないのだろう。
だからといって、所業を肯定するわけにはいかない。
「お前に道を閉ざされるなど御免だ」
そう答えると、ミストバーンも分かっていると言うように頷いた。
やがて映像の中の影は大魔王に肉体を返し、使徒達の前に真の姿を現した。
記憶に触発されたかのように、空中に漂うミストバーンの姿も変わる。
白と黒の合わさった姿から純粋な黒へ。暗黒闘気の集合体であるミストへ。
「その姿は……!」
驚愕を面に出したハドラーに、ミストは浴びせられる視線と侮辱を予想し、苦々しげに問いかける。
「お前もあの人形と同じか? 一人では何もできないと蔑むのか」
暗い声には無理に感情を抑えつけたような響きがある。
「お前にとっても……私はやはり寄生虫にすぎないのか?」
ハドラーの遺志を継いだヒムは、一番許せない侮辱を投げつけた。彼以外の敵も嫌悪や同情を覗かせていた。
「軽蔑するだろうな」
「……ッ! それがお前の答えか……」
尊敬する男の答えに衝撃を隠しきれず、影の体が震える。俯いたミストに続く言葉が注がれた。
「全て己の力だと思い上がっていれば、の話だが」
驚いて顔を上げると、ハドラーは真っ直ぐに見つめている。
「寄生虫かどうか、決めるのはお前の姿勢ではないのか?」
他者を思うがままに操る快感に酔い、周囲を見下す。
たとえ鍛えられる体を持っていようと、そのような性根の持ち主ならばハドラーとて侮蔑するだろう。
「お前は己の身を可愛がるような男ではあるまい」
大抵の敵はミストバーンの体を傷つけることはできないが、アバンの使徒達は違う。ダイやヒュンケルの空の技に倒される可能性も高かったが、彼は躊躇わず戦った。
追い詰められている状況でも、主からの一言ですぐさま無敵の肉体を返却した。
大魔王のためならば、迷いなくその身を危険に晒す覚悟がある。
「それに、惨めさに打ちのめされた経験はオレにもあるのでな」
屈辱を味わっても戦おうとする姿は、他人事とは思えない。
堂々と言い放たれ、ミストは身じろぎをした。返す言葉もどこか歯切れが悪い。
「だが、お前は……惨めな姿から脱しただろう」
「オレが高みへと上ることができたのも、アバンと弟子だけのおかげではない」
動揺を隠しきれないミストに対し、ハドラーは静かに語る。
「生きがいを見つけることができたのは、大魔王に復活させてもらったからだ」
生きがいを見出すきっかけも、失いかけたのも、大魔王がいればこそ。機会を与え、奪いもした、人生に大きな影響を与えた人物だ。
「ザボエラや奴の息子の力が無ければ、成長速度の差は埋めようがなかった」
いくら身を燃やして立ち向かおうと、手ごたえを感じる間もなく終わっただろう。
出世に利用するため力を貸したにすぎず、簡単に裏切る男だったが、尽力があったのは事実だ。
「改造を行い、己を振り返る時間を得られたのは……お前のおかげだ」
肉体面の強化を上回るほど精神が変貌を遂げたのは使徒達に影響を受けたからだが、見つめ直すための時間が必要だった。
弱さを直視し、強さとは何か考え続け、結論が出た。敵である使徒達とその師の姿から学んだのだ。
ハドラーの目の中に浮かぶ感情を目にして、ミストは戸惑っている。
「私を憎んではいないのか?」
地位を、生命を、未来を捨ててまで挑んだ戦いを、残酷な形で終わらせようとした。ハドラーにとってどれほど重いものだったかを理解していながら。
ハドラー自身も先ほど、道を閉ざそうとする行為は受け入れられないと語っていた。
「機会が永遠に喪われたならば、許せなかっただろうな」
怒り、嘆き、絶望を噛みしめながら死んでいっただろう。
来た道を振り返ってみると、それらの感情はおさまっていた。最も望ましい形で願いが叶った以上、今更ぶつける気になれないという方が近いかもしれない。
確かに得た輝きを曇らせないように、前向きに捉えたい。決別の真相に思うところがあったのも同じ理由だ。
「お前とてオレを憎んでいるようには見えんが」
大魔王を守り抜いてきたミストにとって、処刑されそうになったからとはいえ、殺す寸前までいったのは許せない。
許せないが――心に憎悪は見当たらない。
ハドラーが反逆を決意するのも当然と言える、大魔王の数々の仕打ち。その一部始終を目撃し、事情を把握しているが、それだけではない。
ミストは納得したように呟いた。
「同じこと、か」
かつての行いを受け入れることはできないが、憎み嫌う気にはなれない。
相手への理解と、抱く感情ゆえに。
安堵したようにミストの眼差しが和らいだが、ハドラーの目には鋭い光がよぎる。
「寄生虫と呼ばれることを良しとしないならば、何故驕った?」
映像の中で、ヒュンケルの意識の中に入り込んだミストが高らかに笑い声を響かせている。
楽しげな灯影を見つめるハドラーの表情は硬い。
彼は超魔生物と化す前にヒュンケルと激闘を繰り広げたことがある。
その時ハドラーは、意識を失ってもなお闘志を燃やして己を倒した若者を、真の戦士と称賛したのだ。
魔軍司令時代から敬意を抱いていた。使徒打倒を生涯の目標と定め、一人の武人として見つめ直して、いっそう深まった。
尊敬に値する若者に対して影が取った態度を看過することはできない。
「自らの手で鍛えようと、積み上げた力はヒュンケルのものだ。……血のにじむような努力の結晶を奪い取り、喜んでいたのか?」
問い詰めるハドラーの声には、正体を目にした時には無かった、失望したような響きが宿っている。
単に乗っ取ろうとしたならば、何も言わずにいただろう。道具と告げただけならば、根底に称賛があると解釈することもできた。
だが、影は――歓喜を露にしていた。
正体を表した時の映像からは、己の体質を嫌っている印象を受けた。鍛錬の成果を掠め取って悦に入る性格にも見えなかった。それは間違っていたのか。
ミストは虚を衝かれたように目を瞬かせた後、考え込んでいる。
能力に溺れているように見える振る舞いを、今になって意識したのかもしれない。
思索の後に口を開いたが、遥か遠くを想うかのように声は茫洋としていた。
「バーン様の、お役に立てると思った」
あの瞬間、熱に浮かされたような感覚が心を包んでいた。
主のために働ける狂喜が嫌悪をも凌駕し、全てを忘れさせた。
「……ミストバーン……!」
厳かに名を紡ぐ声からは失望の色は失せていた。
冷酷な言動に賛同はできないが、想いの強さに驚嘆せずにはいられない。
幾千年もの間ただ一人の主に仕え、守ってきた。新たな器を手に入れ、再び体を預けられるまでの数百年を戦おうとした。
そこから先、何千年も――存在が続く限りずっと、忠誠を捧げるために。
高みへ上ったという実感も、身につけた力で強敵を打ち倒す手ごたえも感じぬまま、戦って、戦って、戦い続ける日々。
主と出会う前も、後も、傍からは同じく闇に閉ざされているように見えるが、彼にとっては全く違うのだろう。
ハドラーは軽く息を吸い、吐き出した。
言うべきことはまだ残っている。
「人形かどうか、お前が決めることでもないだろう」
一番似ていると認めた戦友(ヒム)を否定した相手に、静かに問いかける。
「生まれつきの性質だけを見て、どう在ろうとしているかまで決めつけ、罵る。お前の嫌う所業そのものではないか」
「ぐ……っ!」
痛いところをつかれたように、ミストはびくりと身を震わせる。
体質や戦い方などが自分に近いと判断した対象に、理不尽なまでに厳しい言動をとるのは歴然たる事実。
軽蔑とともに吐き捨てられたならば激高したかもしれないが、諭すように指摘されては反論もできない。
何より、相手はハドラーだ。内面を見ようとしている相手に否定する気にはならない。
「魂を認めろというのか。……お前のように」
「不可能とは言うまい。上を目指す者ならば、肉体的な強さに関わらず、お前は認めるだろう」
強靭な身体を持っていようと、絶大な魔力を誇ろうと、精神が伴っていない者は尊敬できない。
魔道の実力者であるザボエラと、処刑場で立ち向かった兵士達。
単純な強さはどちらが上か比べるまでもないが、敬意を抱くのは後者だ。
ハドラーに関しても、強化された肉体を凌駕する勢いで内面が強くなったからこそ、魂に鮮明に刻まれたのだ。
会話の内容を反映したかのように映像が変わった。
大魔王バーンがハドラーに初めて顔を見せた謁見の、ほんの少し前のようだ。
画面の中のハドラーが熱い魂を感じると告げ、礼を述べる。
「この時は驚いたぞ。……ハドラー」
率直な感想にハドラーも笑みとともに答えた。
「実は、オレもだ」
己の立場を気にするばかりでは他者に感謝の念など抱けない。己の身が危うい時に、疎ましく思っている相手に心から礼を述べるなど、考えもしないだろう。
苦境に立たされ進むべき道を見つめ直したことで、世界の見え方が変わった。今までとは違う自分になれたと、己の口から出た言葉が証明した気がした。
魔王軍において、弱く惨めな姿とそこから這い上がる様を見ていた存在。相手に抱く印象や語りかける言葉が大きく変わったことで、世界の見え方が――己の姿勢が変わったと実感させた者。
鏡のように己の変化を映した存在だからこそ、切り捨てられた時の衝撃が大きかったのかもしれない。
晴れやかな面持ちのハドラーを見て、ミストは己の体に視線を落とした。
ハドラーは映像と同じく胸を張って立っているが、自分は真の姿を晒している。
ミストはしばらく迷うように目を細めた。内側で衝動がぶつかり合い、言葉がこぼれる。
「お前が感じた熱は――」
言葉を切り、覚悟を決めたように吐き出す。
「心に巣食う炎かもしれん……」
魂に渦巻くどす黒い思念は、誰よりもよく知っている。
強者への敬意と言えば聞こえはいいが、言葉ほど美しく、真っ直ぐな感情が根底にあるわけではない。
大魔王のように己が上に立つという自負から生じたものでも、ハドラーのように到達すべき目標として抱いたものでもない。
自身への嫌悪という暗く濁った衝動から生まれたものだ。
能力を必要とされてから数千年が経っても、己の身を忌まわしいと捉える意識は消えない。与えられた使命を誇らしく思えば思うほど、意識せずにはいられない。
鍛え強くなれる者を、様々な感情を込めて見上げてきた。形を持たない体が焦げるような心地を味わいながら。
どういうことだと言いたげなハドラーに、熱の正体を言葉少なに語る。
羨望の焔が伝わったのかもしれないと。
黙っていればいいはずの内心を明かしたのは、今だからこそだ。
夢に似た世界で残滓が邂逅しただけとはいえ、二度とこんな機会はない。
真の姿を知られ、相手をどう思っていたかも暴かれた以上、頑なに隠しておく気になれなかった。
あの時と状況は大きく変わっている。
道が隔たっても抱く感情は変わらないが、ハドラーの方はどうなのか。
尊敬の念が深いからこそ――魂を認めてくれた唯一の相手だからこそ、向き合い、答えを聞かねばならなかった。
「その炎は忌むべきものなのか?」
「何……?」
耳を疑うように訊き返したミストに、ハドラーは落ち着いて応じる。
「無論、褒められん部分もあるが」
苛烈な炎は、敵への残酷な仕打ちにとどまらず、味方であっても焼こうとする。
もらいものの力に酔いしれ敗北したフレイザードを、容赦なく踏みにじったように。
炎が向かう先は、偽りの生命を持つ者だけではない。他人の力に縋り、労せずして成果を自分のものにしようとする者もだ。
魔王軍において、あるいは大魔王に対して確かな功績があるザボエラに対し、終始辛辣な評価を下していた。
「信頼できんのはよくわかるが、あれでも大魔王に最後まで従っていた男だ」
そうは言いながらも、ハドラーは苦いものを噛むような表情をしている。ザボエラに拘束された彼を救うために、親衛騎団の一員――ブロックが犠牲となったのだ。
ザボエラの言動を思い出したミストは、ハドラー以上に眼差しを険しくした。
「お前を――前の主を嬉々として売り渡し侮辱する輩にっ……! かける情けなどあるものかっ!」
「……厳しいな」
激しい怒りに驚いたようにハドラーの反応が一拍遅れた。頭に血を上らせた相手に、わずかに呆れを含んだ調子で続ける。
「熱くなるとあれほど周囲が見えなくなるとは思わなかったぞ」
映像の中には、鬼岩城を壊されて怒り狂い、素顔を晒そうとした場面もあった。
己の体への嫌悪という炎。そこから生じた忠誠心はさらなる高温の火炎と化して、視界を塞ぐ。
理想の器を手に入れようとした時もそうだ。
主の役に立てるという高揚が、使徒の不屈の精神を軽視させ、身を滅ぼすことにつながった。
「……それでも否定せんのか?」
激した感情が冷めやらぬ影に向けて、ハドラーは同じ高さに立つように下降した。
目線を合わせてから、天へと視線を向ける。
「地ではなく、高みを見つめ続けてきたならば……な」
上を目指し天へと駆ける戦士達を見上げる、視線のベクトルは近いと思ったのだから。
好敵手の領域へ辿りつこうとした自分に。もしかすると、高みへと上ろうとする使徒達にも。
「その火がお前そのものなのだろう?」
諦念に沈み込むのではなく、下にいる者を見つけて安心するのでもなく、己の能力に満足せずに感情を燃やし続ける。
暗く激しい焔によって、必要としてくれた主への忠誠心や鍛え強くなれる者への敬意が生まれた。
その忠誠心や敬意から生じたさらなる炎が敵味方問わずに向かい、最期に己の身をも焼いた。
受け入れがたい部分も多いが、忌まわしいものと断じることはできなかった。
表裏一体の炎によって人格の剣が精錬されたのだ。
「オレの気持ちは、今でも変わらん」
熱がもたらす功罪を目にしたが、出した答えは過去と同じだ。
「――認めるべき魂の持ち主だ」
信じられないと言いたげに目を見開いたミストに、ハドラーは問いかける。静かな怒りすら感じさせる低い声で。
「オレの目は節穴だったと言いたいのか? 本性を見抜けぬ愚か者だと」
真の姿や内側の暗い炎を知ってもなお考えを曲げない相手に、影は言葉を失った。
「……ハ……ハドラー……」
やっとのことで名を呼ぶ声は掠れている。
短くない沈黙が流れた。
強者に敬意を、嫌悪する輩に侮蔑を明かしたことは何度もあるが、こんな時は長年被ってきた無言の仮面を意識せずにはいられない。
もどかしさを感じながら、湧き上がる感情を形にしようとする。
言葉を探した後、結局影は簡潔に、思ったことをそのまま伝えることにした。一番過不足無く表現できる気がしたから。
「私はお前の名を忘れはしない……永遠に……!」
迎える運命はただの消滅――無かもしれないが、最期の瞬間まで比類なき戦士の名を抱き続けるだろう。
強い想いのこもった声にハドラーは返答しなかったが、微かに口が動き笑みを形作った。
一通り光景を再生し終えたためか、世界が金色の淡い光に包まれた。水滴のような光の粒子が、空から緩やかに舞い降りる。
同時にミストの黒い体に蒼白い火炎が纏わりつき、糸となって巻きつく。
織り上げられたのは、魔王軍最強の男の姿。黒の核晶を爆発させる前に晒した素顔が、黄昏の光に照らされる。秘法はかかっていないようだが、相貌は白く、両目も閉ざされたままだ。
いつしか二人は、大魔宮上部――天魔の塔の天井付近にいる。戦闘により荒れ果てた部屋を、夕日が照らしていた。
このような光景は、二人のどちらも見ていない。再会の舞台を用意した者が見たのかもしれない。
今まで虚空に映像が浮かび上がるばかりだったが、今回は実体を伴っているらしい。
形成された足場に引かれるように、二名の身体がゆっくりと降下する。白皙の青年の方は動きがやや鈍い。床に降り立ち周囲を見回す動きは、珍しいことに疲れているように見える。
思念が反映される世界ゆえに、暗黒闘気生命体のミストもほんの少しだけ生身に近い感覚を得たのかもしれない。
慣れないかのように掌を開閉させるミストバーンに、ハドラーが液体の入ったグラスを差し出す。
魔炎気を思わせる、仄かに陰りを帯びた深い紅。
その色に何を思ったか、受け取ったミストバーンは動きを止めて見つめていた。
やがて、誰かに捧げるように掲げてから、ゆっくりとグラスを傾ける。
飲み下す様がぎこちないのは、器を使った飲食が数千年ぶりだからという理由だけではないようだ。
「……苦いな」
味などろくに感じないが、そう呟かずにはいられない。
主の傍らで、望みが叶った光景を目にして口にしたならば、この上なく甘く蕩けたことだろう。
ミストバーンの心を反映したかのように、世界が次第に闇に染まる。
「懐かしいものだ」
手近な瓦礫に腰を下ろしたハドラーは目を細めて呟いた。
勇者アバンに倒され、意識が暗黒に落ちていった時のことを思い出したのだ。
大魔王の力によって蘇り、激動の人生を歩むこととなった。
「大魔王、バーン……!」
あまりに冷酷な仕打ちを受け、敵対を選んだ。
非情な心の持ち主であり、恐ろしい男だという評価も変わっていないが、良くも悪くも大きな影響を及ぼした人物だ。
ハドラーが何を言いたいのか薄らと察したのだろう、ミストは空に目を向けながら呟いた。
「あの御方がいなければ、私はただ生きるだけの屍として彷徨っていた」
卑屈に身を縮め、目に映るもの全てを疎みながら時を過ごす。自身の矮小さを呪い、生きている実感を得られないまま。
ハドラーにも覚えがある。力を増す敵や信頼できない部下、恐ろしい主に怯え、己の弱さを痛感し、進む方向を見失っていた時の辛さは。
同じく腰を下ろしたミストバーンに、彼は目で続きを促す。
「あの御方が私に……生を感じさせてくださった」
ハドラーは自身の歩みを想起したのか、黙って聞いていた。
各々が内面に思考を向ける中で、静かな時間が流れていく。
現実と時の流れが違うのだろう。先ほど沈んだ太陽が、さほど時間も経たないうちに世界を照らそうとしている。
ハドラーの身体が指先から砂のように崩れていく。超魔生物の黒い灰ではなく、白銀の粒と化して。
ミストバーンの方は、長い髪やその先端が触れる腰が曙光に融かされ、黒い染みが広がっていく。
滅びの刻が近づいている。
消え方の差異は、体質ではなく生き方の違いから生じるのかもしれない。使徒達に限りなく近づき、最期は仲間と認められたハドラーと、最後まで敵として悪で在り続けたミスト。
決別した後両者の道は交わることはなかった。
日輪に対し神聖なものを眺めるかのような眼差しを向けて、ミストバーンはぽつりと呟いた。
「勝ちたかった。ご恩に報いねば、死んでも死にきれん……!」
鮮血の滴るような声だった。
ハドラーのように晴れやかな笑みとともに滅びを迎えることはできない。主のために戦えず、敗北を噛みしめながら消えゆく運命が口惜しい。
力こそ全てという主の正義が突きつけた結末だというのに、大人しく受け入れることができない。
それでも、声に漂うのは虚しさではない。
地に張りついた影が、天を目指す鳥とともに進むことができた。光に焼かれることになったが、この道を選ばなければよかったなどとは思わない。
「さらばだ。ハドラー」
最初は、形だけの上司にすぎなかった。お遊びで作られた軍の大将という枠から出ることはなかった。
暗黒闘気を用いて復活させた時も、ただの駒と見なしていた。強靭な肉体を精神の弱さで台無しにする様に、歯がゆさすら感じていた。
生き様を眩いと感じるようになったのは、いつの頃だったか。
気づけば傍らの男は――忘れられない存在となっていた。
立ち上がったミストは、一歩一歩前に進む。ハドラーには相手の表情は見えず、背中が目に入るばかりだ。
「ミストバーン……」
最初は、対応に苦慮する部下だった。実質的な立場は己より上だと思うと、寡黙さも表情の乏しさも恐ろしく、気を滅入らせるばかりだった。
復活させられた時も「大魔王のために戦え」という要求しか伝わらず、本人の意思や考えはよくわからなかった。悪くなっていく状況に焦り、内面を理解しようとも思わなかった。
誠意を――熱い魂を感じられるようになったのは、覚悟を決めた頃からだろう。
決別したが、道程において重要な役割を果たした。今までの歩みが自己を形成していることを考えれば、己の中で決して小さくはない存在だ。
白と黒の混在する背に向けて、ハドラーは別れを告げる。
「さらばだ……炎隠す霧よ」
焼き尽くす王を覆い守る影であり、黒い霧の奥に炎のごとき激情を宿す者。
互いに向ける関心の種類や程度は異なっていたが、生きがいと出会って生じた熱や見上げた方向は近かった、魔王軍における唯一の理解者。
声を背に浴びながら、大魔王の影は太陽の輝く空へと手を伸ばした。決して届かぬ領域に魅せられたように。
天へと向かおうとするかのような姿勢で、火影は光に沈んだ。