SS『You may call me “Master”』
※ミストがヒュンケルを乗っ取ろうとする。
楽しそうな声が意識の回廊に響いた。
「お前は私の武器だ! 道具だ!」
体の持ち主によく聞こえるよう、黒い影は声に力を込める。
憎悪を呼び起こし、心の闇を引きずり出すために、言葉に毒をにじませながら。
影――ミストの中で、状況を有利に運ぶための方法は二つあった。
一つは今しているように“悪意”を見せ、相手の怒りを煽ること。
もう一つはその反対だ。
心の奥底では大切に思っていたと主張すれば、本当は魂を砕くことなど望んでいないと釈明すれば、若者は隙を見せるかもしれない。正義や慈愛、優しさを重んじる使徒の一員として、耳を傾けるかもしれない。
(仕方なくやっている? バーン様のための行動を、私が?)
そんな台詞は演技でも口にできない。他ならぬ自分が許さない。
「フハハハハッ!」
ずっと心の中に描いてきた、こうはなりたくないという姿をあえて見せる。
借り物にすぎない力で調子に乗り、傲慢に哄笑を響かせる姿を。
「武器……か……」
衝撃を受けたのか、若者――ヒュンケルの声は遠い。
きっと、人格や魂を否定され、苛立ちと反発を覚えているのだろう。今までのように、悪の化身である影を倒さねばと感情を燃やしているはずだ。
(そうだ、私を否定しろ)
闇の痕跡を滅ぼそうとすればするほど、過去の象徴を消し去ろうとすればするほど、その衝動が影にとっての力を生むのだから。
何もかも心にもない台詞というわけではない。
言い方に棘をこめているとはいえ、内容自体は本音に限りなく近い。
武器や道具と見なしているのも、“ミストバーン”に近い存在になれるのは光栄だろうと信じているのも、紛れもない事実だ。
褒め言葉ではあるのだが、人間の基準では到底受け入れられないことはわかっている。
彼らの感性に合わせた言葉を用いるつもりはなかった。
心を踏みにじる、師と呼ぶことすらできない相手――そう思われる方が好都合だ。
少しでも相手の精神を闇に沈め、さらなる力を引き出すために。
「ハハハ……ッ!」
いつしか笑い声が自然と出ていることに気づき、影は訝しんだ。
どこまでが演技なのか。どこからが本心なのか。
境界が曖昧に融けていく。
弟子の体を乗っ取ろうとする行為。
それは必要だからやっているはずだ。
この場にいる敵を倒すため。器を手に入れ、次に主の体を預かるまでの間戦うために。
それ以外何の意味も持たないはずなのに――高揚が心を包んでいる。
まるで剣士が、己のためだけに研ぎ澄まされた名剣を手にしたかのような。
忌まわしい能力を使っているはずなのに、不思議と心は軽かった。
一つになろうと身を進める中で、確信が湧き上がる。
(お前は私の物だ……私そのものだ!)
理性は違うと訴えているが、感情の奔流は止まらない。
思えば、予備の器として育てると決めた時から、少年を見る視線が変質していった。
鏡に映る像を眺めるような視線へと。
(お前の力は、“私”が身につけたもの)
“自分”を鍛える行為に敬意など抱きようがない。
(“私”がバーン様を裏切るなど、あってはならない!)
よりによって“自分”が、主への裏切りを働き、敵対し続けるはずがない。
(お前は“私”だからこそ、今まで生き延び……ここへ来たのかもしれん)
矛盾した現実を正すためにはもう一人の自分を始末するしかないが、“己”を殺すことなどできはしない。
敬意を払うべき一人でありながら、見上げる対象にはなりえない存在。
殺すのは惜しい理想の器であると同時に、絶対に許せない裏切り者。
一つになるのが約束されていたかのように、ここにいる相手。
混ざり合う感情が影の体を炎のように揺らしていく。
目に歓喜を宿しながら魂を掴もうとした刹那、黒い身を光が貫いた。
「何っ!?」
腕が焼かれ消えていく中で魂に触れようとするが、驚くほどあっけなく力が抜けていく。
(馬鹿なッ……!)
抵抗らしい抵抗もできないことに影は焦った。
弟子がこれほど早く迎撃態勢を整えているのは予想外だった。光の闘気を使われては致命的だ。
だが、影とて魔界の強者の体を乗っ取ってきた経験がある。
せめぎ合いの果てに魂を砕いたことも数え切れない。
いくら相性が悪かろうと絶対的な経験の差があるのだから、ここまで一方的に負ける事態など考えられない。
(……まさか)
理由に思い至った影の面に、笑みらしきものが浮かんだ。
悲しむような。誇るような。
主に仕えて数千年。
その間、魂を直接消すことは無かった。
浴びせられる侮蔑に暗い感情を燃え立たせ、それを力と変えて握りつぶすことも。
尊敬に値する戦士達の身体を無為に使い潰す虚しさを、別の相手の魂を砕くことによって紛らすことも。
羨望と絶望、憎悪と虚無の霧の中で練達した技は、見る影もなく衰えていた。
己の能力に意味を与えられ、誇りを抱いたことによって。
信頼されて預けられた体を操り、目的を持って戦い続けたことによって。
光をも呑み込む深淵ではいられなくなった。
「だからこそ、負けるわけにはいかん!」
偉大な主との出会いによって黒い剣が錆びついたならば、その鈍った刃で屠るまでだ。
最期の力を振り絞り、消えかけた腕をかざしたミストは動揺した。
ヒュンケルの心は静かだった。
迎撃に際して、影が予想した感情が浮かんでいない。絶対的な敵に対して抱いているはずの、否定や敵意が無い。
まるで魂胆を見抜いたかのように。
「何故……!」
疑問に応えるかのように、ヒュンケルの声が響いた。
「本当は、わかっていた。目を背けていただけだった」
光当たる道を進もうとすればするほど、己の背から伸びる影を意識することとなる。
逃れようとがむしゃらに突き進み、切り離そうとひたすら剣を振るった。
近いところにあるからこそ、否定せずにはいられなかった。目を向けるだけで、闇に囚われてしまう気がしたから。
戦う力を喪い、走り続けることができなくなって、ようやく背後(かこ)を見つめる機会が与えられたと言えるかもしれない。
「オレが逃れ、消し去りたかったものは――」
言葉の代わりのように、光が強まった。見出した答えが、黒雲から差し込む陽光と化して影の体を引き裂いていく。
闇の師を否定するだけでは、これからも逃れることはできないだろう。
戦えなくなった己に何ができるか考え、今までの歩みに目を向け、影の狙いに気づくことができたのだ。
なまじ直接戦う力が残っていれば、倒すことに意識を向け、対処が遅れたかもしれない。
「どうやらオレは……おまえの弟子でもあるらしい」
「ヒュンケル……! お前は、私を……ッ!」
ミストの声が震える。苦痛と、それ以外の何かに揺らされて。
ここまで光の闘気を溜めこんでいたのは、己を選ぶと最初から察していたため。
察することができたのは――。
闇の師は弟子の名を叫び、やがてその声も光に消えた。