強制救済ゲーム シャングリラSS『愚者よ夢見ることなかれ』
※吾牛視点のEND3
悪夢が展開されていた。
白い天井と群青色の壁で構成された部屋に、殴打の音と苦鳴が何度も響く。
楕円形の白い机に人がぶつかり、机を囲むように配置された赤い椅子が揺れる。
室内には数人の若者がいた。
音や振動の発生源はただ一人。髪を逆立てている男、小森孔司だ。
初めに彼は最も近くにいた人間に殴りかかった。絶叫とともに。
「コージ!?」
小森の標的は親友の八木山兎だ。暴力を振るわれることなど想像していない八木に、無慈悲な攻撃が突き刺さった。
事態を呑み込めない一同が見つめる中、小森の拳が淀みなく動く。
「こ、孔司さん!?」
「イカレやがって……!」
涙ぐんでいる猫俣孤宇介や、冷や汗を流す猿飛三狼は、言葉を発しながらも動けない。彼らは小森の勢いに呑まれている。
八木が倒れると、小森は血走った目で周囲を見回した。彼は次の獲物を定めようとしている。
「落ち着け、小森!」
緑の学生服を着ている男――猪熊吾牛は小森を止めようとした。
小森が凶行に走った理由は眼前で惨劇が起きたためだ。
彼らは命懸けの助け合いを強制され、何度か切り抜けたものの、とうとう犠牲者が出てしまった。
それも、一度に二人。
今蛇犬丸と豚田虎男の体は爆発し、肉塊と成り果てた。そんな光景を見てしまっては小森が恐慌をきたすのも無理はない。
落ち着かせれば解決する。そう考えて声を掛けようとした吾牛の面に衝撃が走った。
「ぐっ、が……!」
吾牛の長身がぐらりと傾ぐ。
再度、顔面に衝撃が弾けた。
何かが砕ける音とともに目の奥に激しい痛みが走り、吾牛の視界が霞む。
小森の狂気に吾牛の思考は追いつけない。喧嘩慣れしている不良といえど、まともに反応できない。
純然たる殺意を浴びた経験などこの場の誰にもなかった。
攻撃に――目の前の事態に対処しなければならないのに、吾牛の脳裏に浮かぶのは先ほど交わした会話だった。
『あの時の恩返しができて、本当に良かったですよ』
(今蛇……)
過去受けた恩を返すために吾牛の命を救った人物、今蛇犬丸は死んだ。
彼は復讐を優先し、仇とともに死ぬことを選んだ。
『なあ、猪熊さん。このゲームが終わって無事に帰れたらよ、どっか遊びに行こーぜ』
『なんか美味いモンでも食いに行きましょうや。ね?』
(八木。小森……!)
最初に吾牛に歩み寄った八木は、顔面を赤く染めて倒れている。
美味い物を食べに行こうと誘った小森は、八木を攻撃し、自分にも拳をふるっている。
小森の台詞に何と答えたか思い出して、吾牛の口内に血とともに苦い味が広がった。
『そんなら、遠慮しねーからな。マジで美味いモン期待させてもらうぜ』
喜びのにじんだ台詞に、吾牛の口元がゆがんだ。笑みに近い形の唇から血が流れる。
(なんで期待しちまったんだ)
彼は今まで、自分の人生に良いことを見つけられなかった。これからも起こらないと思っていた。
(分かってたはずだろ? クソッタレな人生だと)
そのままの考えでいれば苦しまずに済んだ。
期待しなければ裏切られることも無いのだから。
二十分ほど前は、吾牛は静かに死を受け入れようとしていた。
『もしここで生き延びたって俺には何もねーからさ。ここでスパッと死んじまった方が、キレイに丸く収まんだよ』
『パパッとくたばってやっから』
どちらも吾牛が小森に告げた言葉だ。発言した時は、すんなり死ねると本気で思っていた。
実際に死が訪れようとしている今、予想していたより遥かに苦しい。
喧嘩で拳を浴びたことは何度もあるのに、味わったことのない痛みが吾牛の意識を蝕んでいる。
殴られた箇所とは別の部位が痛む。原因不明の苦痛は、過去の言葉を思い返すたびに発生する。
『頼むよ考え直してくれ! 自分が死んで、皆の役に立とうだなんて思わなくていいからよ!』
『俺達と美味いモン食いに行くっつー約束も、パアにするってことかよ』
『逆に考えてみろよ。今家に帰ったら、オメーは一人で自由にやってけるかもしんねーぞ』
(……ああ、そうか)
己の血が床に落ちる音を聞きながら、吾牛は痛みの出所を悟った。
これは、手に入らないと諦めていたものを掴みかけた瞬間、奪われた痛みだ。
吾牛に持たせた張本人がもぎ取り、叩き壊した。
吾牛が諦め、小森が与えたのは、あれば前向きな気持ちになれるもの。
夢見てしまった。
両親との関係に悩まず、友達ができ、たまに遊びに行く。そんなささやかな希望――都合のいい未来を。
彼に夢を見せた男が、夢を終わらせようとしている。
狂気に冒されながらも小森の攻撃は正確だ。
暴力行為にはペナルティが発生するのに、小森は一切動じない。指を失う激痛を味わいながらも止まらない。
低い声が時折小森の口から零れる。
「何が」
小森とて、最初から血塗られた結末を望んだわけではない。火傷を負いながらも八木を救い、吾牛に生きるよう説得し、今蛇に対しても復讐を思いとどまらせようとした。
ゲームの主催者の望み通り、助け合おうとしていたのだ。
「何が、助け合いだ」
小森は今蛇の説得に失敗した。
復讐に燃える今蛇は相手を道連れに死んだ。体内の薬が爆発し、人の形をしていない物体が二つできた。
血と肉が爆ぜ、地獄のような光景が生まれた。
異様な状況で負荷がかかっていた小森の精神。それは今蛇達の死という衝撃で粉砕され、残骸が飛躍した結論に辿り着いた。
「みんな苦しむくらいなら。俺の手で、全部」
助け合いでは救えないから、自分の手で命ごと苦しみを終わらせる。
この場にいる全員に死という救済を与える。
それが小森の下した決断だった。
説得の言葉を誤り惨劇を生んだという意識の反動で、自分が『救世主』になろうとしている。主催者が望んだものとは正反対の形で。
「全部、終わらせてやる」
彼は皆を強制的に連れていくつもりだ。
罪を背負う必要がなく、苦痛も感じない世界――シャングリラへと。
救済を掲げ、小森が拳を振りかぶる。
生き延びるならば、抵抗するか、逃げなければならない。
「……はは」
吾牛の口から掠れた笑い声が漏れる。
彼は逃走と抵抗、どちらも選ばなかった。
自分の生存を望む者は誰もいないと結論づけたためだ。
父と母は今頃病院にいる。自らの手で長時間暴行を加えたのだ。
この場で知り合った者達も同様だ。吾牛の生存を望んだ今蛇は死に、八木は倒れ、諦めるなと訴えた小森が殺そうとしている。
(もう、疲れた)
この場を生き延びたところで、自分には何もない。ゲームを進める中で捨てたはずの考えが、より深く吾牛の心を侵食している。
希望を抱いた刹那叩き落とされ、もう一度探す気にはなれなかった。
吾牛はほとんど見えなくなった目で小森の顔を見ようとした。
暗い視界にかろうじて像が映る。
小森は笑っている。
小森は泣いている。
全員に救済を与えるまで、彼は止まらない。止まれない。
それが小森にとっての救いでもあるのだから。
瞼を閉ざした吾牛に永遠の眠りがもたらされた。