足音が響いた。
冷たい廊下を踏みしめ、一人の男が進んでいく。
金色の髪に、丸みを帯びた眼鏡と翡翠色の瞳。黒い衣服に緑のマントを羽織った出で立ち。一目見れば研究者や学者と思う者が大半だろう。
罪人が囚われた建物内を歩くには場違いな若者だった。
現在真夜中だ。面会に来るには相応しくない時刻なのだから、よからぬことを企んでいると思われても無理はない。
だが、彼を阻む者はいない。
看守たちは皆、意識を失っていた。開かれた目は虚ろで何も映していない。
それを容易く成し遂げた若者は、目的の場所まで来ると顔をゆがめた。
牢獄には、鉄格子の嵌められた窓から薄い光が差し込んでいた。
夜を照らす月光は、獄中の人間の姿をも映し出す。
変わり果てた姿を。
美しい白銀の髪は汚れ、かつて槍を握りしめていた指も力無く開かれていた。華やかな衣装を着ればさぞかし映えるであろう容姿は、今や踏みにじられた花のようになっていた。
手足は拘束されていない。牢を破ったり脱け出したりする力は無いと見なされたのだろう。
その判断は正しいと言えた。冷たい床に横たわる人間は、力無く瞼を閉ざしている。
青年の顔が曇り、苦痛をこらえるように小さく息を吐き出した。
「シルフィール」
彼が呼びかけると、囚人がのろのろと身を起こす。表情の変化と比べて鈍い動きは、体が思うように動かないことを示していた。
彼女が弱っているのは、囚われてからの仕打ちが原因だ。
彼女は、悪魔である青年と関わったがために魔女狩りに遭った。新たな時代を築くために身を捧げ、革命を成功に導いた功労者であっても、疑われ、恐れられ、疎まれた。
今、青年は悪魔たる力を発揮してここまで来た。英雄譚の主人公のように、囚われの恋人を救いに。
彼の力ならば簡単に救出できる。種族の違いゆえに引き裂かれた二人は手を取り合い、逃亡の果てに安住の地を見つけ、物語はハッピーエンドを迎える。
そうなるはずだった。
乾いた唇が動いた。
「……カオス」
青年の名を呼んだ彼女の言葉に、若者――カオスは打ちのめされた。
彼女は助けを拒んだのだから。
動くことも辛い身で姿勢を正し、静かに、しかし決意をにじませて宣言する。
法を築き上げた自分が法を破っては、混沌の時代に逆戻りする。自分達が命を懸けてなしとげた革命を無意味なものにするわけにはいかないと。
一言でいい。
彼女が助けてと願えば、死にたくないと訴えれば、容易く叶えられる。
何も邪魔者全てを排除するわけではない。彼が牢まで訪れたように、静かに、誰の命も奪うことなく逃げられる。
しかし、彼女はそれを望まない。
無理矢理連れ出したとしても、彼女は自身を許さないだろう。
「何故……」
知らぬうちに呟きが零れる。
この力があれば何でもできると思っていた。
この頭脳があれば解決できぬ問題など無いと思っていた。
どんな難局も切り抜けられると自負していた。
数千年かけて培われ、揺らぐことの無かった自信はあっけなく崩壊した。
「死を、恐れては……いないのですか?」
彷徨の間、死に怯え、逃れようともがき、力尽きて捕らわれる人間を数え切れないほど見てきた。
理想のために戦いに身を投じた者達も、志半ばで斃れることを悔しがった。
シルフィールは首をかすかに横に振る。彼と会えなくなることが辛い、残していくことが苦しいと語る。
それでも決意は揺らがない。
「私に生きろと? 貴方のいない世界で……永遠に!」
とうとうカオスの口から叫びが迸った。「賢者様」と呼んでいた仲間が目撃すれば驚愕するであろう、激情を露にした表情とともに。
強く握りしめられた鉄格子が嫌な音を立てた。
息も絶え絶えの、じきに死ぬ人間が微笑を浮かべ。
強い肉体を持つ悪魔が絶望に身を震わせる。
彼女は、一つだけ願いがあると言った。
「……何ですか?」
(私にできることならば、何でも――)
決心した彼の耳に飛び込んできた声は、静かだった。
人間を恨まないでほしい。
理不尽な罪状で捕まり、明日殺される運命の人間は、他の人間のことを気遣っている。おそらくは命が尽きる瞬間も。
彼女の心を変えることはできない。
自分にできることはこの場から去り、彼女の選んだ結末を見届けることだけだ。
静かな絶望に身を浸しながら、彼は一言残すことにした。想いを伝えても状況を打開することはできないのに、そうせずにはいられなかった。
「愛しています。シルフィール」
きつく握りしめていた鉄格子から指を離し、手を伸ばす。爪の剥がれた指と、白く長い指が絡んだ。
唇を重ね合わせた時間は長くなかった。
月の下に出ていった彼の背は闇に飲み込まれた。
翌日、「魔女」が焼かれる光景を、群衆に混じって眺める青年の姿があった。顔を隠すフード越しに、愛する者が焼き殺される様を食い入るように見つめていた。
その時から彼の世界は壊れ始めた。