金色の髪の青年が闇の中にいた。緑の目は目覚めが近いことを知りながらも曇っている。
使い魔を救うため魔剣と契約し。虚空に身を投げて。
それでもなお、生きている。
(……やはり……)
死ねない。
悪魔は倒されても自我が魔力として残り、いずれ復活する。
最強の悪魔――始祖ともなれば、命を落とすことすら難しい。
意識が浮上し、視界に光が入り込んできた。
身体を軽く動かして手足があることを確認する。
体を覆う布の感触に、頭の下の枕。いずれも疲労していた人間ならば心地よく感じるものだ。
寝台に横たえられている体は重く、手足に力が入らない。
全てを喰らう魔剣の主となり、己が作り上げた世界の歪みに落ちた。そのせいで無傷とは言えない。
金属を詰め込まれたような手足を動かすと痛みが走った。親友との激闘の傷も残っているらしい。強靭な生命力のおかげか深手ではないが、包帯が巻いてある。
何者かが連れてきて、治療まで行ったようだ。
改めて室内を観察する。ベッドのすぐ横の卓に、水の入ったコップと眼鏡が置いてある。魔剣も杖も時空の狭間に無くしたというのに、こればかりは離れなかったらしい。寝かせる際に顔からとって、置いていたのだろう。
眼鏡をかけて見回すと素朴な木張りの壁が目に入った。白いシーツは清潔で、調度品も質素だが品が良い。
複数の気配が近づいてくるのを感じた。いずれも害意は感じない。
扉が開き、少年と少女、そして恰幅のよい女性が入ってきた。
「ここ、は……」
かすれた声が出た。予想以上に消耗しているらしい。喉を押さえた彼にコップが差し出される。
「道ばたで倒れてたから連れてきたんだよー」
「いきだおれのわりにこぎれいだったよな、兄ちゃん」
「行き倒れ……ですか」
思わず苦笑を浮かべかけたものの、的確に言い表しているかもしれないと思い直した。
今の彼は行き先の定まっていない旅人のようなものだ。虚ろな魂を抱えて彷徨い、倒れ、それでも命の火は消えず、再び歩むことを余儀なくされる永遠の囚人。
顔を曇らせた彼を見て、少年と少女は心配そうに覗きこんできた。
内心はどうあれ、この状況で言うべき言葉は決まっている。
「……ありがとうございます」
素直に頭を下げた彼に、子供達は嬉しそうに「どういたしまして!」と答えた。
数年かけて、親友を陥れてまで全てを賭して、入念に準備を整えた計画を挫かれた。気力が尽きかけているのか、尊大な物言いも不遜な態度も出てこない。
親友と闘う前の傲慢な振る舞いも半ば演技だった。相手を奮い立たせ、全ての力をぶつけ合うための。その上で、己の夢が打ち勝つか、友が止めるか、確かめたい気持ちがあった。
物思いに耽りかけた彼を女将の言葉が引き戻した。
「無事でよかった。何やら最近、この辺の魔物の動きが変わっててね」
「よかったのですか? そんな状況で怪しい男を拾うなど」
「武器も持ってない、弱りきってる優男だからねぇ。本より重い物、持ったこと無さそうな顔してるし」
「……なるほど」
カオスは苦笑を浮かべざるを得なかった。
吸血鬼の始祖の内の一人が、弱者と見なされ助けられた。
人間どころか魔王と恐れられる悪魔ですら比べ物にならぬ力も、現在の状態ではろくに発揮できないだろう。
(彼も、同じような心境だったのでしょうか)
以前自分が友にした仕打ちも似たようなものだった。眠りについていた彼の力を奪い、格下の相手に苦戦するほど低下させた。
今の彼は一般の魔術師と大差ない。
外見も合わせて人間に近い存在と言えた。
会話――相手が放ってくる言葉を受け止めると言う方が近い状態――を続けて情報を集める。
この村は森の中にあり、アルギズの村と同じくらいの規模だ。田舎の小さな村は静かで、隠遁していた彼の性に合っていると言えた。
彼が今いるのは宿屋の一室だ。
彼女は宿屋の女将で、その子供二名が彼を発見したのだという。
「金銭を持っていませんが……」
だから滞在させなくていい、と言外に匂わせたが、女将は動じない。
「だったら、手伝いを頼めるかい?」
掃除や皿洗いといった雑用を担当させるつもりだ。
「食事と寝場所は提供できる。これでも、ここの料理はなかなかの評判だよ」
下の階には食堂があり、宿泊しない者もちょくちょく利用している。
観光名所も無い小さな村だ。今までやってこられたならば、新たに人を雇い入れる必要は無い。
わざわざ彼を雇おうとするのは、行き場が無いことを察しているのだろう。
無謀な冒険者といった風体でもない青年が、憔悴しきって倒れていたことに何かを感じている。
無理に聞き出そうとはせず、必要以上に干渉してこようともしない。
もし彼が内心を打ち明けようとすれば、真剣に耳を傾けるだろう。
黙り込んでいる彼の表情をどう受け取ったか、安心させるように微笑みかける。
「大丈夫、何も朝早くから夜遅くまで一日中働かせるわけじゃないから」
「そこまでハンジョーしてないもんね」
「だめだろ、ホントのこと言っちゃ」
「こらあんたたち!」
カオスは何度目かわからぬ苦笑を浮かべた。
彼女らはどうやら、彼が体力に恵まれてはいないと勘違いしているらしい。外見だけならば線の細い若者としか思えないだろう。
「……いずれ旅に出ようと思います。それまでの間、よろしくお願いします」
「よろしくね」
「よろしく、お兄ちゃん!」
親子は歓迎するように笑いかけた。
カオスは、自分が人間の基準でも「マメな性格」に位置するらしいと知った。
元から家事はできる方だった。使い魔と一緒に料理や掃除も行っていた。仕事にもすぐに慣れ、手際よくこなして感嘆されるようになった。
長時間拘束されるわけではなく、労働の量も多くないため、空いた時間に別のことをして稼いでいる。比較的安全な領域にある薬草の採集と販売を手伝うのだ。
たいした額にはならないが、ひとまず旅費を得るのが目的だった。この村から旅立ってしまえば、危険な領域を通りつつ希少な薬草や鉱物などを採取できる。それを売却すれば効率よく稼げる。
だが、消耗しきった状態では旅に出てもうまく進めない。
「しばらくは留まり、準備を整えるしかありませんね」
言い聞かせるように呟いたが、人に混じる嫌悪感や拒否感は胸を支配してはいない。かつて己の屋敷に人間の少女が来た時は冷たくあしらい、厳しい台詞を投げかけたというのに。
友やその仲間に過去を明かし、胸の内を吐き出したためか。
計画を止められて、己の本心に気づいたためか。
(本心?)
ふと動きを止め、否定するように首を横に振る。
(余計な問題を起こしては準備が遅れる。それだけのこと)
そう考えもしたが、我ながら言い訳じみていると思った。
たとえ彼がそっけなく振る舞おうと、この村の住人は弾き出しはしないだろう。
友の心を変えていった村人のように。
刺々しい態度をとっても意味が無いとわかっているから、穏やかに接しているのかもしれない。
居心地は悪くない。
素朴で、目を引くものの無い、小さな村。住んでいる人間はみな呑気で、ささやかな出来事に幸せを見出すことができる者達だ。
傷だらけで倒れていた「人間」を、村長も村人も受け入れ、歓迎の意を表している。
それが辛かった。
己と同じ道を進み、異なる結末に辿りついた友を連想するから。
正体を知らないから笑いかけてくるのだと思いながらも、考えてしまう。もしかしたら、彼女とこのように暮らす未来があったかもしれないと。
追憶を振り切り、目を上げる。宿の子供達が飛び込んできたためだ。
夜の暇な時間は村人から借りた書物を読みふけったり、子供達と話したりする。
カオスはあまり関わらないようにしようと心がけていたが、相手は好奇心旺盛な子供だ。距離を置こうとしてもお構いなしに「遊んで!」「お話し聞かせて!」とねだってくる。
少年の方は剣士に、少女は魔導師に憧れているらしい。少年が虚空に剣を向けるようなポーズをとると、少女も小さな掌をかざす。
夢を語る子供達をカオスはぼんやりと眺めていた。
普段は二人があれこれ話しかけてくるが、今回はカオスの方が口を開いた。
「一つ、訊きたいことがあります」
「なーに?」
くりっとした瞳に答えてみせようという意気込みをみなぎらせながら、二人はくいついた。耳を澄ませる子供に問いを投げかける。
「大切な人に会いたいけれど会えない時、どうしますか?」
「お引越ししたの? それならお手紙を出すとか」
「しっかり準備して、うんと遠くまで旅に出る!」
元気よく答えた子供に向けて、言葉を付け足す。
「それが、手紙が届かぬほど――辿りつけぬほど、遠い場所にいるのですよ」
「うーん……」
悩む二人を前に、彼は胸の内で溜息を吐いた。最初から答えは期待していなかった。
最高の頭脳と魔術の技能を持っていても、「死者を蘇らせるのは不可能」という事実の前には何の解決にもならなかった。
大切な相手を取り戻す唯一の手段を見つけても、親友に阻まれた。もはや実行は不可能だ。
これからすべきことは一つ。
もう一つの世界を壊す方法を探しに行くしかない。
なかなか体調の戻らないカオスは、体を慣らすために少し足を伸ばし森へと入った。
二人とともに薬草を採っていく。
普段この森には魔獣はあまりいないため、奥に行っても危険は少ない。
最近は魔物の動きが変わっているということで、奥に踏み入らないよう通達されていた。
忠告は正しく、たびたび魔物が近づいてきた。それらもカオスが一瞥をくれただけで逃げていく。格下の相手ならば『畏怖の邪眼』は通じる。人知れず戦闘を回避することができ、好都合だった。
時刻は夕方。そろそろ帰る時間だと声を上げようとしたところで、カオスの目が細められた。
気配がした。
夜を愛する者の。
この森は魔獣がほとんど出ない、安全な場所だったはずだ。魔獣達の不自然な動きは、目覚めた者を恐れ、移動したのかもしれない。
今まで彼が察知することができなかったのは、力を失い感覚も鈍っていたからだろう。
「……先に帰ってください。用事ができました」
子供達に事情を説明しては、彼一人を置き去りにはしないだろう。心配して他の人間を呼んでくるかもしれない。
「これを持って行ってください」
なるべくさりげなく聞こえるように頼みつつ、薬草の入った籠を持たせる。
「少し散策して帰りますから。魔獣に気を付けてくださいね」
目で促すと、子供達はこくりと頷いて小走りに駆けていく。
カオスは小さくなる背中を見送り、草むらの中へと足を踏み入れた。
白い影が形を成した。
来訪者を迎えるように虚空から姿を現したのは、長身の青年だった。悪魔によく見られる真紅の瞳がカオスを見据える。腰まで届こうかという長い髪は銀糸を紡いだかのようだった。何色も混ざり合ったような、不思議な色合いの布を身に纏っている。その手には銀色の手甲があり、爪のように複数の刃が伸び、青白く輝いている。
「訊きたいことがあるのですが」
「何だ?」
にべもなく断るかと思ったが、相手はそっけない態度ながらも応じた。
「貴方はずっと、ここで眠っていたのですか?」
「ああ。遥か昔、封じられたはずだったが……目覚めてしまった」
まるで復活を歓迎していない口ぶりだ。
魔王として恐れられたヒュプノシスは、人の悲鳴や絶望を己の悦楽としていた。
大抵の悪魔は本能の命ずるままに人を襲う。目覚めた瞬間、歓喜とともに人間を攻撃するため動き出すだろう。
目の前の悪魔の貌に、愉悦の色は無かった。
「では、もう一つ」
カオスの瞳に危険な色が閃いた。夕映えに染まった金髪が風に揺れる。
「貴方は、私を。殺せますか?」
微睡んでいるように虚ろだった双眸に、炎が宿った。燃えるような色の両眼がカオスを睨みつける。
「……試してみるか。その体で」
(さすがにこの言葉は看過しませんでしたか)
戦うためだけに生み出された存在が、力を疑われて引き下がりはしない。
恐怖が微塵も浮かんでいない眼で、カオスは爪を観察する。刃が魔力を帯び、魔剣に近い性質を持つようだ。威力は馬鹿にできない。身のこなしも優れているだろう。
それだけならば、距離を保って魔術を撃ちこめば人間でも倒せるはず。
だが、眼前の悪魔の鬼気を浴びると、それで終わるとは思えない。
それ以上考えるつもりはなく、カオスは冴えた輝きの刃とその持ち主を見つめる。
親友には頼めない、己の望みを叶えてくれるかもしれない相手を。
己に迫る刃を無感情に眺めていたカオスは、眉を寄せた。
草を踏む音が聞こえた。
軽い音は子供のもの。数は二人分。
彼の言いつけを無視して戻ってきたのだ。
おそらくは、思い直して一緒に帰ろうとしたのだろう。
「……ッ!」
悪魔の腕が霞み、カオスは咄嗟に身を沈めた。
空気が唸り、紅い線が走る。
カオスの肩から胸にかけて、皮膚が黒い服ごと弾けた。血煙とともに布の切れ端が宙に舞う。手甲から伸びる刃が体を易々と引き裂いたのだ。
続いてもう片方の肩からも赤い液体が飛び散り、頬を濡らす。常人ならば最初の一撃で戦う力を奪われ、倒れ伏しているだろう。
血なまぐさい光景に子供は立ちすくんだが、すぐに動き出す。
「お兄ちゃん!」
「だ、だいじょうぶ?」
「下がりなさい!」
駆け寄ってくる二人にカオスは鋭く言葉を飛ばす。
初めて目にする険しい顔に、子供達はぴたりと足を止めた。
新たに出現したかよわい獲物に、悪魔の貌がゆがんだ。カオスから視線を逸らし、小さな人影に顔を向けた悪魔は目を細める。
「感じる……ヒトの気配を、幾つも」
子供達の来た方向から人間の集団――村の存在を察知した。
悪魔は歩を進める。この子供を殺し、村も滅ぼすために。
「くっ!」
カオスは魔術で転移し、子供らの前に立った。
素早く懐に手を入れ、六芒星の紋章を幾つも取り出し、周囲に落とす。道具を使って簡易の魔法陣を作り、結界を張る助けとする。己の世界内では一瞬で強固なものを作れたが、今の状態では道具に補ってもらう必要がある。
盾のように展開された不可視の壁が爪を弾き、甲高い音を立てた。耳に刺さる音に二人は身を竦ませる。
「逃げなさい。……早く!」
小さな村でも手に入る道具で、質はたかが知れている。衰弱した体では込められる力も限られていた。術式を編み、精錬しても、阻むには足りない。
障壁が砕け、無防備になったところに次の一撃が迫る。
身を翻し、二人を抱え込むようにして受け止める。
「ぐっ……!」
体を引き裂かれる痛みとともに鮮血が迸った。
背中に刻まれた傷から血液が溢れ、黒い服を染め上げていく。両肩と胸はすでに血に濡れ重くなり、背も傷つけられて痛みを訴えている。
「兄ちゃん……!」
「やだよ……死んじゃ、やだ」
涙ぐんでいる少女に彼は笑いかけた。
「死ぬ? 私が? ……とても面白い冗談だ」
この体は貪欲に生を求める。意思を無視して命をつなぎとめようとする。
二人から身を離し、軽く押すようにして子供と距離を取った彼に次の刃が迫る。
腕に掌を当てて逸らそうとしたが、脚が腹部に叩きこまれた。身を折りながら吹き飛ばされた体が、木に叩きつけられて止まる。バキバキという音がして、折れた枝が転がった。
(私は、何を……)
意識が朦朧とする。咳き込む中で疑問が浮上する。
(こんなことをしても、何にもならないというのに)
胸中に巣食う虚無感が、無駄な行動だと囁いている。
今ここで彼が抵抗し、子供が生き延びたとしても、いずれ死ぬ。身を張って戦う理由は無い。
(何の、意味も無い)
彼女のいない世界。色彩の消えた世界。
停滞し、変化の無い世界などどうなってもかまわない。
そう考え、実際に叩き壊して作り直そうとした。
「くだらない。ああ、実に。……くだらない」
彼女以外の人間。儚く死ぬ定めの存在。
彼らがどうなろうと心は痛まない。
そう考え、己一人の夢のために無数の人間を巻き込もうとした。
(……それなのに)
ならば何故、友に話したのか。わざわざ止める機会を与えたのか。
黙って結界を発動させれば、夢は叶っていた。
「何故、私は……」
問う声は、薄く広がり始めた闇の中に溶けていく。
翡翠の目に淡い光が灯る。
本当は、わかっていた。
己が計画を実行しきれなかった理由も。
答えはすでに自分の中にあったのだ。
彼女が守ろうとした世界を、彼女が仲間とともに勝ち取った未来を、自らの手で滅ぼすことはできなかった。
折れた木の枝を拾い上げ、大地に突き刺し、意識を集中させる。大気に存在し、世界を流転する魔力を感じながら、己を通じて枝に流れ込む様を描く。
「……契約を」
木の枝が一瞬強い光を放ち、目のような模様が先端に浮かび上がる。
即席の杖を構え、彼は魔術を発動させた。
「フレアシュート」
二枚の布が翻るように、炎が躍る。鳥のように広がった双炎が敵の体で重なった。
大魔術ではない。単純な、炎による一撃。
それは悪魔の身を打ち、膝をつかせた。無に近い表情だった悪魔が目を見開き、小さく呻く。
「我が、属性を?」
世界の万物に存在する属性を把握し、弱点を突く。初歩的な魔術でも、属性を見極めて使えば大きな効果を発揮する。「使い所が肝心」という基礎的な事柄だが、読み取ることが難しい相手も多い。属性を悟らせぬ攻防の中でもカオスは見抜いていた。
(それも、この速度で)
詠唱は長くない。力を練り上げたわけでもないのに、予想以上の熱をもって身を焼いた。
動揺を面に出した悪魔だが、引き下がる気は無い。
彼が腕を交差させると、体を薄紅色の幕が包んだ。
「焔衝結界」
低い呟きにカオスの目が細められる。
結界を張り、攻撃を防いだり反撃を行ったりする者もいる。今張ったのは炎による攻撃を和らげるものだろう。
カオスは杖を向け、勢いよく横に振るう。
「サンダーブレード!」
雷の剣が男の身に突き立てられた。見事に直撃したというのにカオスは軽く眉を寄せた。悪魔は痛手を被っていない。
「予想通り、ですね」
炎が防がれるならばと他の属性の魔術を放ったが、たいした痛手にはならない。
接近戦に長けている悪魔を倒しづらい存在へと押し上げているのが、魔術への抵抗力だった。
距離が近ければ爪で圧倒する。距離を取り、魔術で倒そうとしても耐えきる。
単純に攻撃と防御に優れ、それゆえに間隙をつくことの難しい敵。
属性魔術全般の効果が薄く、唯一の弱点も結界で補っている今、突破口は極めて限られていた。
(結界を破壊するには、物理的な攻撃が有効なようですが……)
あいにく、剣の一振りも持たぬ状態だ。持っていたとしても、この相手には通じないだろう。
彼が得意とするのは魔術だ。正面から武器をぶつけ合うような戦いでは後れを取ってしまう。並みの相手ならばともかく、一流の実力者ならば苦戦を強いられる。
体調が思わしくない今、接近戦を挑んでも勝ち目はない。
魔術で対抗しようにも、相手の攻撃をかいくぐりながら放つ魔術では致命傷には程遠い。短時間の詠唱では発揮できる力もたかが知れている。
仮に敵が大魔術を放つ猶予を与えたとしても、殺すには足りない。属性魔術への防御力が高い相手では。
「止められぬか。我が、ヒトを、殺すことを」
重く沈んだ声に子供が小さく息を呑み、身を寄せ合う。恐怖に揺れる二対の瞳が悪魔を映していた。
「――ならば」
カオスは小さく呟き、頭を横に振った。何かを振り払うかのように。
両手で杖を頭上に持ち上げるようにして詠唱を始める。
詠唱を断ち切るかのごとく、重い衝撃が二つ、胴に叩きこまれた。
「……ッ!」
爪が腹部と胸を貫き通していた。
傷口から熱が全身に広がり、脳を侵していく。生暖かいものが口から溢れ、地を濡らす。
子供が名を呼ぶ声が遠く聞こえた。
どこか憂鬱そうに顔を曇らせた悪魔は、目を見開いた。
若者の口が動いている。なおも詠唱を続けている。
「我は、混沌の名を持つ魔導師。世界の終焉を望む愚者」
最強の悪魔の内の一体。吸血鬼始祖の中でも邪眼と呪いを得意とする、特異な能力の保持者。
「災厄を齎す混沌の風よ。虚ろなる物語に終幕を」
完成に近づきつつある魔術の脅威を肌で感じながらも、男は遠くへ逃げようとはしなかった。爪を引き抜き、距離を取って、両腕を交差させ己の魔力を高める。
行使する魔術の名は『災厄』。
六属性のいずれにも属さぬ、大魔術を超えた魔術。
「――カラミティ」
既知の属性を持たぬ光が渦を巻き、奔流となって襲いかかる。
暴力の具現化したような魔術が獲物を呑み込んだ。
旋風が収まると、男は空を眺めるように倒れていた。視線が己を倒した若者へと向き、血に濡れた唇がゆっくりと動く。
「とうに潰えた、野望の駒として……この身は動く。己が意思に関わらず、殺そうとする」
殺戮のために造られ、それを求める人間もすでにいなくなっている。
倦んだような響きを伴っている言葉を、カオスは遮らなかった。
「我らは、道具だ。ヒトを滅ぼす、ためだけの……。……ならば何故、意思がある?」
嘆きに近い問いに、カオスは沈黙をもって答える。
「道具ならば……それになりきれれば、よかったものを」
悪魔の目が動き、真剣な色を湛えてカオスの面を見据える。
「羨ましい、な。自由に力を振るえる……者達が」
男は疲れたように溜息を吐き、瞼を閉ざした。
(――感情など無ければ)
放浪の中で、そのような考えが浮かんだことは何度もあった。
戦闘のために造られた兵器ならば、いっそ心など持たなければと想った。
殺戮に興じる悪魔を見、自分も同じならば迷いや渇きを感じずに済んだだろうかと考えたこともある。
しかし、そのたびに否定することとなる。
他の悪魔のように、人を滅ぼすことに疑問を抱かなければ――彼女と出会うことも無かったのだから。
自分と似た感覚を抱えている相手に、心からの言葉を贈る。
「泡沫の夢なれど。どうか、安らかに」
戦いの終わりを感じ、彼は意識を手放した。目覚めた時に待ち受ける目を予想しながら。
真っ先に目に入ったのは涙を溜めた子供の顔だった。
少し顔を動かすと、枕元に女将もいた。部屋の中にはいないが、他の村人もやってきているようだ。
散々身を抉られ、胸と腹を貫かれた。即座に治療されたわけでもないのに、生きていられる人間などいない。
それは村人達も――子供すらわかっているはずなのに、逃げようとはしない。
恐怖の色が無いとは言えない。それでも、真っ直ぐ彼を見つめている。
(……レヴィエル)
親友やその相棒となった少女も、このような視線を浴びたような気がした。
己が引き起こした焼き討ちの際、力を目撃して恐れた人間も、彼のせいで厄介ごとに巻き込まれたと疎む人間もいた。
だが、あの二人ならば、という考えも浮かぶのだ。
己を変え、周囲を変えていくことのできる彼らならば、異なる結末に辿りついたかもしれない。互いだけでなく、種族が隔たっている相手とも絆を絶やすことは無かったのではないかと。
思索に耽る彼におずおずと少女が口を開いた。
「……ありがとう」
小さく頭を下げた彼女に倣って、少年も礼を述べる。
「兄ちゃんがいなかったら、今ごろおれたちも、村のみんなも……ありがとな」
「……。礼には及びませんよ」
薄い笑みを浮かべて答えた彼に、女将が心配そうに問うた。
「これから、どうするんだい?」
「旅をしようと思います」
以前と同じ言葉を繰り返す。もう一つの世界を滅ぼすという目的も変わらない。
「ただ……楽しみが増えました」
使命に縛られていなくても、所詮人と相容れぬ存在だと諦めていた。
幾年経とうと、人も世界も変わらないと嘆いていた。
少しずつ、心を閉ざしていた檻が開いていく。
きっと今までと違う心地で世界を巡ることができるだろう。
彼は、探求者として旅を続ける。
移ろいゆく世界で、人間が何を成すか見届けながら。