四人の男女が夕刻、ひなびた宿を訪れた。
長い黒髪と、同色のコートを着込んだ長身の剣士。槍を携えた栗色の髪の娘。金色の髪で眼鏡をかけた青年に、絹のケープを身に纏う白銀の髪の女性。
温泉が有名な地域ではあるが、彼らが選んだのは素朴な、地味とすら形容したくなるような建物だ。疲労回復のため、静けさを求めて豪勢とは言い難い風情の宿に決めた。
他に客はいない。山中にひっそりと佇む館ならば静寂を楽しめる。
だが、浴場は現在工事中で、片方しか使えない。男女で時間を分けて入るよう定められているが、今泊まっているのはこの四人だけなので、ある程度融通がきく。
宿の状態を知らされた時、別の場所に泊まる案も出たが、結局一行は留まった。分かれて入ればよいならば、問題は無いと判断したのだ。
今回の宿泊の目的は、女性陣の療養のためだった。
神術師として名高いルナは、日頃から治療を行い、魔力を消費している。普通の人間と異なる体になったとはいえ、疲労を感じぬと言えば嘘になる。精神的な疲れの方が大きいかもしれない。
もう一人――シルフィールは、本来の体の持ち主が関わっている。元々使い魔のシルフィールは、主のカオスと屋敷でひっそりと暮らしていた。主の計画が阻止され、自殺も止められ、今までと同じ生活が続くはずだったが、転機が訪れた。
本来の体の持ち主が目覚める予兆らしきものを感じたのだ。
主従は森を出て、世界を巡る中で少しずつ刺激を与えて、呼び覚まそうとしている。
その途中で、旅を初めてしばらく経ったレヴィエル達と出会い、目的が一致したため同行することになった。
たまには刺激から遠ざかりゆっくり休むべきだとカオスが判断し、くつろげる場所に泊まろうとしていたのである。要は、ルナと同じような状況だった。
部屋に向かう途中、レヴィエルが口を開いた。
「カオスから聞いたのだが」
「はい」
「背中を流してもらうと疲労がとれるらしい。だから、私が流そう」
「え?」
ルナは己の耳を疑った。一瞬彼女の視線を浴びたカオスの眉がぴくりと動き、何とも言えない顔で見守っている。
一定の速度を保っていたルナの歩調は乱れ、ぎこちない動きになっていた。
「そ……それってつまり、レヴィエルも入浴することに」
「なるな」
答えは簡潔かつ明瞭で、一切逡巡はなかった。
「じゃあ、服は?」
「脱ぐに決まっているだろう」
何を言っているんだ、と言わんばかりの口調だった。そこらの湖ならばともかく、浴場に服を着たまま入るつもりはない。さすがにそこまで常識外れではないと、レヴィエルは自負していた。
完全にルナの足が止まった。
「レッ、レヴィエル。それは……っ!」
何を想像したのかひどく慌てながら、何かを言おうとして、果たせない。
レヴィエルが純粋な善意で言っているのが伝わってくる。
他の客がいない以上、彼女が受け入れるならば何の問題もない。
「大丈夫だ、ルナ。決して乱暴には扱わない」
「それは、もちろん信頼しています。レヴィエルになら委ねられるって。でも」
「レヴィエル……」
見かねたカオスが助けに入った。
レヴィエルなりに彼女を労わっての提案だが、ルナは固まっている。
この調子では、せっかくの名湯ものんびり楽しむどころではないだろう。
「ルナさんの場合、かえって力が入ると思いますよ?」
すでに湯上りのようなルナの面を観察しながら、カオスは言葉を紡ぐ。
「こういう時は同性の方がくつろげるのではないでしょうか。……シルフィール」
「かしこまりました」
シルフィールが進み出て、レヴィエルにうやうやしく申し出る。
「レヴィエル様、私にお任せください。ルナの疲労を癒してみせます」
「頼もう」
「え、え?」
レヴィエルは、カオスの意見が合っているのだろうと納得している。シルフィールが信頼できることもあり、異論を挟む気はない。
一人慌てたルナはばつが悪くなり、俯いた。
先にどうぞと勧められ、ルナとシルフィールは穏やかな一時を楽しんでいた。
それぞれリボンや髪飾りをとり、広がった髪が艶やかに濡れている。
シルフィールは新雪のような白い肌に。ルナは吸血鬼とは思えない健康的な色の肌に、湯をかける。
やがてシルフィールは、まるで女王に仕える侍女のごとく、かいがいしくルナの世話を焼き始めた。
最初は落ち着かない気分になり、制止しようとしたが、彼女の疲労をとりたいのだと言われれば――実際に体が楽になっていくのを感じれば、強硬に主張できなかった。
動作は丁寧で注意が払われているが、同時に淡々としている。一定の距離感を保っているため、安心できる。落ち着かなかったのも初めだけで、任せられるようになった。
手慣れた様子にルナは感嘆を覚えた。家事が万能だということは知っていたが、こういった技術まで身につけているとは思わなかった。
一通り終わると、今度はルナが同じことをしようとした。シルフィールは遠慮しようとしたが、自分と同じ理由を持ち出されては断れない。結局、先ほどのルナに倣って好意を受け入れた。
シルフィールと比較すると淀みない動きとは言いづらいが、気持ちは十分に伝わってくる。シルフィールは目を細め、新鮮な体験を楽しんでいた。
湯につかる二人は、気持ちよさそうに揃って息を吐く。ほぼ同じタイミングだったため、顔を見合わせて笑みをこぼす。
一言二言湯の感想を述べ合った後、沈黙が落ちる。
破ったのは、ルナだった。
「……人間じゃなくなっても」
ポツリと呟いたルナに、シルフィールは金色の瞳を向ける。
「ホッとします。こんな時」
シルフィールは、訝しげな表情はしなかった。湯の中の己の体に視線を落とし、小さな声で告げる。
「私もですよ、ルナ。人の死骸から作られた、この体。私は……生きた人間ではありません。それなのに」
掌を胸の中央に当てる。そこに何かが息づいているように。
「私に全てを与えてくださったマスター。マスターに出会えたことを、誇らしく思います」
何かを感じているかのように瞼を閉ざし、彼女は呟いた。
「あの方が目覚めた時、どう感じるかはわかりません。ですが、きっと――」
希望に満ちた表情で語るシルフィールを、ルナは眩しそうに見つめる。
シルフィールと同じく、胸に手を当てて耳を澄ませる。
「私も、一度死んだはずなのに」
闇の魔力で生かされているはずの体に、確かに温かなものが宿っている。夢を叶え、世界を旅する中で、目に映るものを鮮やかに感じられる。
「レヴィエルに会えて、本当に」
その先は言われずともわかったシルフィールは、優しく尋ねた。彼女の面には、主によく似た笑みが浮かんでいる。
「一緒に入りたかったですか? レヴィエル様と」
「シルフィールさんっ! ……もう」
頬を染めたルナが弱々しく文句を言うと、軽やかな笑い声が弾けた。
ルナが力を抜いている頃、レヴィエルは険しい面持ちで沈黙していた。
カオスが所持していた書物を読んでいるが、読み進める速度は鈍い。字を追う視線に熱は無く、ただ表面をなぞっているだけだ。
「ルナさんが心配ですか?」
レヴィエルと同じく書物に目を落としていたカオスが、目を上げて問いかける。
「少々人が良すぎるからな」
神術師として実力を発揮し、名声を得たルナ。彼女の元には、救いを求める者や教えを乞う法術師達が訪れる。
彼女は、一人一人丁寧に相手をする。中には無茶な要求をする者もいるが、乱暴に突き放す真似はしない。
困っている人間を放っておけない性質の彼女は、厄介事を背負い込んでしまう。
「それだけでは、ないでしょう」
緑色の目が、心の奥底まで見透かすかのように光る。
彼女の手に余る用件ならば、手を貸せばいい。頼み事を引き受けて疲れが溜まるならば、こうやって時々休息をとれば済む話だ。
レヴィエルの危惧は、別の所にあった。
彼女は、吸血鬼と化してから三十年、アルギズの村で暮らした。周囲は人間と同じように扱い、穏やかに過ごすことができた。
村を出てから、長い時間が経ったわけではない。
今後は多くの悪意に触れることになるだろう。金銭目当てに襲いかかってくるような直接的なものではなく、密かに忍び寄り、心を蝕む類の。
レヴィエルが憂いているのは、悪意だけではない。
ルナにとっては善意がより辛いかもしれない。
温かな者達の、無数の死を見送らねばならないのだから。
小さな村の数十年でも、親しい相手が幾人も亡くなった。これから出会う人間の数も、歩む年月の長さも、比べ物にならない。
神術でも掬えず零れていく命を――周囲の悲嘆を目にすることになる。彼女は慣れきってしまうことはなく、心を痛めるだろう。
絶望に呑まれることは無いとわかっている。
だが、希望を抱き続けているのは、辛いのではないかと思った。
彼女は、最初から永遠を生きる者として生まれたわけではない。百年にも満たぬ時を生きて、死んでゆく人間だった。
永い年月を歩む定めに、心はなかなか追いつけないかもしれない。
黙っているレヴィエルの耳に、低い声が響いた。
「私も……同じですよ」
カオスは掌を持ち上げ、目の前に掲げる。そこに何を見たのか、表情が曇った。
「私が、奪ったようなものだ。彼女から」
英雄としての未来。
人間としての未来を。
「……カオス」
レヴィエルの鋭い声も届かぬかのように、カオスは目を伏せる。
決して「彼女」の歩みを否定したいわけではないが、考えずにはいられなかった。
自分と関わっていなければ。
もっと別の道もあったのではないか。
本人が誇りをもって進んだ道であっても、問いを止めることはできない。
少なくとも、魔女として裁かれる結末だけは避けられたと声がする。
「人として生きた彼女に。人ならざる生を与えたのも」
内心はどうあれ、何としても生きたいと告げなかった相手に――生き延びる選択肢を選ばなかった人間に、蘇生を試みた。あらゆる手段を試し、世界の再構築という禁忌まで犯そうとした。
「彼女」がはっきりと意識を取り戻し、己の境遇や彼の行いを知った時、何を思うか。無邪気に喜べないことは確かだ。
カオスの面はかすかに青ざめている。
「おかしい、ですね」
口の端が持ち上がり笑みを作ったが、笑っているようには見えない。
「渇きが、止まらない。欲望が……広がっていくんです」
顔の前に上げていた手が動き、己の喉に触れる。指が曲がり、軽く食い込んだ。
「彼女が生きていれば。それだけでよかった、はずだった」
やっと希望を掴んだ。必死になって追い求めた可能性がすぐ傍にある。ようやく「彼女」が目覚めようとしているのだ。
しかし、胸を占めるのは純粋な歓喜ではない。
どんな形であれ生存していればという考えは姿を変え、それだけでは満足できなくなった。
この世に呼び戻したいとだけ思っていたが、叶いそうになった途端、欲望は膨らんでいく。
「彼女」にも新たな生を受け入れてほしいと思っている。
「いえ、受け入れるだけでは足りない。もっと――」
血が零れ滴るような声は、呻きに近い。喉から離れた手が、強く握り締められる。
「私の使い魔に対してもそうだ」
負担を強いられるのは「彼女」だけではない。
使い魔の方も不安定な状況に置かれることとなる。意識も魂も別の存在として生きてきたが、本来の持ち主が現れた。
彼女ならば主の望みを優先し、可能な限り譲ろうとすることを、彼は知っている。自身の消滅すら厭わない彼女は、不満の一つも抱かずに受け入れるだろう。
己が生み出し育てた彼女を、夢のために犠牲にしようとした。望みが潰えた時、置き去りにしようとした。今度は、全く異なる在り方を求めている。
献身に対しそんな仕打ちをしておきながら、望んでいることがある。
「彼女」と同じように、使い魔が新たな生活を受け入れるだけでは、満足できない。
「一体どこに、こんな……こんな欲望が、残っていたのか」
痛みに苛まれるかのように顔をゆがめている友人を見、レヴィエルは溜息を吐いた。
「理解できんな」
冷酷にさえ聞こえる声音だが、カオスは反発することなく頷く。その返答は予測の内にあった。これ以上何を望むのかと呆れられても、おかしくはない。
続く言葉に、カオスは目を見開いた。
「笑っていてほしいと望むのは、おかしなことではあるまい」
「……ッ!」
強烈な衝動の奥にあるのは、単純な願い。
苦しげな表情が薄れた相手を、レヴィエルは紅い眼を細めて見つめる。
彼にも覚えがある。
どんな形であれ生きていればと思い、ルナに己の魔力を注ぎ込んだ。
その結果、命を吹き込むことに成功したが、打ちのめされた。
彼女は、闇の魔力に動かされているに過ぎなかったのだから。
面に張り付いた、人形のような表情。ただただ虚ろな薄い笑み。
どれも、かつての彼女を構成する要素には程遠い。傀儡の笑顔などでは満たされなかった。
カオスが求めているのも同じだろう。
存在を維持するだけでなく、世界を鮮やかに感じること。その貌を、様々な表情で彩ることこそ――。
心を覆う笑みが剥がれている友に、レヴィエルは射抜くような眼差しを向ける。
「ああ、確かに負担を強いるだろうな。だが、それだけか?」
剣の切っ先を突き付けているかのごとき声が、鼓膜を震わせる。
「それで終わらせるつもりか。お前は」
臓腑を抉るような双眸が問うている。
相手を苦しませていると嘆くだけなのか、と。
カオスの目に、怒りにも近い光が閃いた。決然とした面持ちで、首を横に振る。
生きてほしいと願ったのは、己が悲劇に酔うためではないのだから。
「できることが、あるはずだ」
両目に力が戻ったカオスに、レヴィエルは確信をこめて告げる。
大切な相手を生かそうとして命を与えた者同士、苦悩は理解できる。
己の意思で成したことだ。
無かったことにはできない。するつもりもない。
相手を同じ道に引き込み、歩ませる者としてできること。
二人の心に浮かんだ答えは、同じだった。
「……変わりましたね。レヴィエル」
やっといつもの笑みを取り戻したカオスが、しみじみと呟く。
「お前こそ。全く、らしくないな」
助言や忠告をするのはカオスの役割だったのに、今回は逆の形になった。
約三十年前、カオスは己の感情を抱え込んでいた。胸の内を明かしたのは望みが潰えた時だった。
全てを諦めたように笑いながら。
その時からは考えられない態度だ。
空の杯に一気に液体を注ぎ込まれ、今にも溢れそうな危うい姿。ここまで心乱れるのも、感情を表に出すのも、極めて珍しい。
再会の時がすぐ傍まで来ていることを、感じとっているからだろう。
それでも、混沌としているとはいえ、彼の心には色彩が戻っている。
あの頃は静かな絶望と虚無に支配され、苦痛すら鈍く、遠かったのだから。
「それにしても」
先ほどのレヴィエルの言葉を反芻し、カオスは苦笑する。
傍らに立つ者が心から笑えるよう、己にできること、すべきことを考えた。
答えらしきものが見えたが、一つ引っかかることがある。
「却って、彼女達の方に支えられそうですが」
レヴィエルは尤もだと言うように、重々しく頷く。
「……そうだな」
二人は、この場にいない者達に思いを馳せ、口元を綻ばせた。