森の奥深くの屋敷で、密やかな会話が行われていた。
応接間のテーブルにはカップが二つあり、ポットがひとりでに動き、中身を注いでいく。
主人のカオスと従者のシルフィールは、うららかな日差しに似つかわしくない表情で向き合っている。
「リスティルの研究も完成に近づいています」
カオスはカップを持ち上げ、一口飲んでから再度口を開く。
「死んだ人間。生きた魔獣。次は生きた人間に寄生させるでしょう」
カオスの言葉に、シルフィールの面がこわばった。
「そうなると、狙われるのは」
何の関わりも持たぬ者ではなく、レヴィエルの近くにいる人間。
彼女の脳裏に浮かんだ人物を見透かしたかのように、カオスは頷いて肯定する。
ルナ・ウィンストン。
法術の才覚に恵まれている以外は平凡な村娘。
槍術を学んでいるといっても、護身術程度。弱い魔獣ならばともかく、始祖相手では太刀打ちできない。
シルフィールは意を決して口を開く。
「マスター。私に、行かせてください」
「彼女を助けたいのですね。……貴方が……」
言葉は途切れるように消えた。
今まで彼女が、主以外の誰かを守るために行動することは無かった。
大半を閉ざされた世界で暮らし、他の人間とはろくに関わってこなかったのだから当然だ。
屋敷の前で話したこと。力を合わせて悪魔を倒し、カオスのもとへと案内したこと。どちらもシルフィールは、顔を輝かせながらルナについて語った。
初めて友人ができたのが嬉しいと、誰でもわかるほど楽しそうに。
外の世界に出れば、いくらでも機会はある。
生活するための技術や知識、身を守れるだけの力も与えられたのだから、限られた時間であれば人の中で生きていくことは可能だ。
彼女がそれを望まぬことも、彼は知っている。
「貴方が行きなさい」
カオスがいきなり出向いては、周囲を刺激し、ルナへの対応に影響を与えてしまうかもしれない。
現在争いの渦中にいるルナは、ますます危険に近づくこととなる。
揉め事に首を突っ込みたがる――あるいは厄介事が飛び込んでくる彼女の近くに始祖が集まれば、面倒な事態が発生するのは間違いない。
シルフィールは緊張した面持ちで頷き、軽く拳を握った。
「くれぐれも。戦闘は避けるように」
シルフィールは再び頷いた。言われるまでもないことだった。
「リスティルは、今の段階で私まで敵に回しはしないでしょう」
無理にでもルナに害を加えようとした場合、リスクが大きい。
シルフィールを排除し、ルナで実験を行うこと自体は簡単だが、その後に待つのは同胞二名からの攻撃だ。
まだレヴィエルと殺し合う準備が整っていないうちに、邪魔が入ることは避けなければならない。
「ですが、危険であることに変わりはない」
戦わずに済む見込みが大きいとはいえ、気まぐれ一つで容易く消えてしまう。
魔獣や下位の悪魔ならば、シルフィールは十分戦える。それだけの力を与えたのだから、カオスも手出しはしない。その程度の相手にも対処できぬようでは困ると思っている。
今回の相手は、次元が違う。
リスティルがその気になれば、瞬く間に命が摘み取られる。
シルフィールも噛みしめるように頷く。
リスティルとの交戦は避けねばならない。自身の命だけでなく、主の計画も考えての判断だ。
彼女への攻撃が原因でカオスが直接出てきては、事が大きくなりすぎる。
中立と見せかけて、裏でリスティルと結託している状態。それを破り、彼女と敵対すれば、状況は大きく動く。始祖の内二人が表舞台に上がれば、レヴィエルも出てくる形になるだろう。
そうなれば、計画に支障をきたすかもしれない。
「必ずや、貴方が全てを壊すまでお仕えします」
緊張した面持ちの彼女に、カオスは静かに告げた。
「ええ。私の使い魔なのですから、壊されては困ります。最後まで役に立ってもらいますよ」
「仰せのままに。マスター」
シルフィールもようやく笑みを浮かべ、答えた。
リスティルとの対峙は、戦闘には発展しなかった。
帰還したシルフィールには傷一つないが、顔が青い。間近で殺気を浴びた彼女は、身を縮めるようにして座っている。
カオスはテーブルの向こうで、銀色の缶を持って動いている。
「どうでしたか? リスティルは」
「恐ろしい……恐ろしい方でした」
いっそ本能が鈍ければ、気づかずにいられたかもしれない。
たいした力は持たないとはいえ、人ならざる身だ。始祖の傍で暮らしてきたこともあり、そういった気配には敏感だった。思い出すだけで、指先が凍えつくような感覚に陥ってしまう。
「二対一では勝てない。そう言っていましたね」
「はい」
「ふむ。やはり……」
シルフィールの見立てに異論を挟まず、カオスは考えをまとめている。
俯いたシルフィールはリスティルの眼差しを思い起こし、小さく身を震わせた。下を向き、目を半ば閉ざし、落ち着くよう己に言い聞かせる。
心を鎮めようとする彼女の前に、温かなお茶の入ったカップが差し出された。
顔を上げると、向かい側の椅子に座ったカオスが飲むよう勧めた。
「ありがとう、ございます」
ほのかな香りが、身にしみついた恐怖を和らげてくれる。
立ち上る湯気が緊張をほぐしてゆく。
口に運んだシルフィールは目を見開いた。
いつもと違う味だ。希少な種類のものを、丁寧に淹れたのだろう。
「これは――」
「私の命で行かせたのですから」
シルフィールは咄嗟に顔を上げた。
「違います。私の意思でもあります。ですから、マスターが命令したことにはなりません」
軽く身を乗り出すようにして、訴える。無理矢理行かされたわけではない、彼の言葉が原因ではないと。
カオスは力のこもった声に苦笑し、カップを差した。
まずは飲んでから、と言いたいのだろう。
彼女は慌てて再び口をつけた。体中に熱が広がり、ゆっくりと息を吐く。
温かな液体を味わう彼女に、カオスは独り言のように呟く。
「しかし、レヴィエルにも困ったものだ」
「レヴィエル様、ですか?」
「気づいていない。あるいは、認めようとしないのか」
己の変化を、失いたくないものを、自分でも掴み切れずにいる。
人間の小娘がいつまでつまらない考えを捨てずにいられるか、確かめたい。そのために生かしておくと言っていた。
彼は、己が何を望んでいるか、気づいていない。芽生えているものを認めたくなくて、気づかないふりをしているのかもしれない。
すでにどこかで声が上がっているというのに、聞かぬまま進もうとしている。
心と行動の不一致は、殺意渦巻く森においては重大な瑕疵につながる。永遠を生きる彼にはさしたる痛手にはならずとも、危機に晒される者がいる。
「生じた隙間から、零れ落ちるかもしれないというのに」
鏡を設置しに行った時は守ったが、一度目を離すと無頓着だ。
彼女の出す答えを見届けるつもりだというのに、窮地に陥ったことも知らぬままでいる。
無数の人間の命を奪ってきたのだ。彼らがあまりにあっけなく死ぬことも、蘇らないこともよく知っているはずだ。
彼女がいつそうなってもおかしくないことに思い至らないのは、彼が永遠を生きる者だからかもしれない。
実際に思い知らされないと、感じられないのかもしれない。
熱の失われた身に触れて。何の感情も浮かべない顔に呼びかけて。
溜息を吐き、ひたいを押さえるカオスをシルフィールは見つめる。
普段より口数が増えているのは、シルフィールの気を紛らそうとしているからだ。
友人への不満ととれる内容に反して声が穏やかなのは、シルフィールへの配慮だけではないだろう。
シルフィールは確かめるように発言する。
「守らないのかと訊かれて、否定しませんでしたね」
数日前は、守るという行為には、獲物を横取りされたくない程度の意味しかなかった。
今は、異なる意味がある。
何千年も血塗られた道を歩んできた悪魔が、ほんの数日で変わりつつある。
「退屈しないことは確かですが」
呆れている表情だが、カオスの口元は微かに綻んでいた。
再び聞く態勢に戻ったシルフィールに、カオスはぼやいてみせる。
「ルナさんもです。警戒心が足りない。全く足りない」
レヴィエルから、人間とは違う、永い時を生きる種族と聞いた。
人の血を欲する化物だということも。
その仲間ならば、普通は近づきたくないと考えるはずだ。
人の中で友好的に暮らしているならばともかく、森の奥に隠れるようにして住んでいるのだ。怪しんで当然の相手だろう。
まさか、その住居に踏み込む際、あれほど恐怖や警戒の色が薄いとは思わなかった。
今回の一件だけではない。
数日前、野盗に襲われそうになった。この時点で、しばらく村の外に出るのを控える程度の警戒はしてもおかしくない。昼間誰かと出かけるならばまだいいが、夜一人で出歩いてはまた狙われかねない。
それからたいして日も経たぬうちにイディスに連れ出され、レヴィエルをおびき寄せる駒にされた。
イディスにとどめを刺そうとしているレヴィエルを見て、逃げるどころか体を張って止めに入った。
己を殴り、首を絞めたレヴィエルに対しても、十字架の丘で再び会った時に話しかけた。
人間の天敵という事実を――血を求めていると知った時は、己の身を差し出そうとした。
「……嘆かわしい」
彼女が思っているほど、善良な者ばかりではない。話し合いの余地が無い相手など大勢いる。
彼女が悔いる時には、どうにもならぬ状況に陥っているかもしれない。
「理想や甘さを捨てきれぬならば。夢を叶えることもできず、命を落とすことになるでしょう」
苦い声に、シルフィールは沈黙を選んだ。
カオスが語った内容は、何もレヴィエル達に限った話ではない。
心の声と進む方向とが食い違い、大きな何かを失うかもしれない。何かを捨てきれず、望みを叶えられずに終わるかもしれない。
嘆くように視線を上向けて、カオスは言葉を吐き出した。
「世界が彼女のような人ばかりならば……ああ、とても過ごしづらそうだ」
突き放すような言い方だが、表情を見ればどう思っているか明らかだ。
「まだ、少々時間がある。……せいぜい楽しませてもらいましょう」
口の端を持ち上げ、不遜な笑みを形作る。
発動までの気晴らし。そう片づけるには些か感情がこもっている声で締めくくり、眼鏡を外して拭く。
世界の破壊者に相応しい笑みを浮かべながらも、カオスの目には、久しく見えなかった光がちらついている。
その光をもう少しよく見ようとして、シルフィールは相手の目を見つめる。それに気づいたカオスの面から傲慢な笑みが消え、不思議そうな色が覗く。
シルフィールの視線は手元の眼鏡に移り、そこで止まった。
「かけてみますか?」
言おうとしたことを先に言われ、シルフィールは目を瞬かせた。すぐに白い面に喜色が浮かび、改めて頼む。カオスは意外そうに首をかしげながらも、快く渡した。
「貴方がかけても、視界に変化はありませんが。……どうぞ」
礼を述べながら受け取った彼女は、恐る恐るといった態でかけた。
琥珀色の瞳が、レンズの向こうからカオスの顔を見つめる。
緑色の目が、シルフィールを見つめ返す。
彼女が考えていることを読み取った彼は、疑問を解消すべく答えた。
「似合いますよ。とても」
声に気負いは無い。本音を口にしただけだ。使い魔に世辞は言わない。
それはシルフィールにも伝わり、彼女は頬を緩めた。
彼女はまだ、主の両眼に視線を向けたままだ。
カオスは黙って受け止め、見つめ返す。
しばらく両者は動かなかった。
「……シルフィール?」
呼びかけられたシルフィールは我に返り、瞬きを繰り返した。これ以上見つめることを恐れるように目を逸らす。
ほぼ同時にカオスも視線を外した。本人も気づかぬほど微かに、顔をゆがめて。
「大丈夫ですか?」
「はい。見ていると……不思議な気分になったので」
思ったことをそのまま口に出したシルフィールの声は、頼りない。
抱いた感覚を明確な言葉にできず、もどかしそうに首をかしげる。眼鏡の有無が原因ではないだろう。
眼鏡を返したシルフィールに、カオスが休息をとることを提案した。
「少し、休んだ方がいいのでは」
「もう大丈夫です」
シルフィールは、満ち足りた表情で告げた。
一時の忘我に、心身に刻まれた楔が消え去った。凍えた指先にも熱が通っている。
相手から恐怖や緊張が消えたことを歓迎しながらも、カオスの表情は翳っている。
見つめ合った時、心に淀みが生じた。
夢を叶えるという一念に染まっているはずの己の心。そこには複数の色が混ざっている。
一色で完全に塗りつぶすことができれば、他のことは考えず、計画を進めているだろう。
逆に、混ざっているものが心を支配する色を押し流せば、全てを壊すという選択肢は消えるだろう。
目の前の相手も、混ざっている色の一つだった。
決意を濁らせるが、悪質なものではないはずだ。
ただ、苦い。
作り直される世界では存在しないと思うと、痛みが増した。
その苦痛をも凌駕するほどに、空虚な感覚が精神を蝕んでいる。
彼女に何かがあれば黙ってはいない。その気持ちに偽りは無い。
同時に、彼女を完全に消そうとしているのも彼自身だ。
「マスター?」
黙り込んだ彼に、シルフィールが遠慮がちに声をかける。カオスはすぐに返答せず、一度瞼を閉ざした。
世界から色彩が失われたのに――虚ろな穴に呑まれかけているのに、虚無感以外の感覚が残っている。苦痛を伴いながら、己を揺さぶってくる。
目を開けると、シルフィールは心配そうな視線を送っている。少しでも彼の力になりたいという願いを、金色の瞳に宿して。
「……本当に。困った人ですね、貴方は」
心からそう告げて、彼は笑った。