ノクターンSS『Devils never cry』
金色の髪の青年が、短い草の生えた地面を軽く蹴る。
碧空に浮かぶ島から身を投げた彼の口元には、笑みがたゆたっていた。風を切って落ちてゆく感覚も、彼の表情を塗り替えることはできない。その先に待つものに焦がれているのだから。
最悪の魔剣と契約する。底知れぬ深淵へと飛び降りる。
悪魔といえど、どちらか一つで死ぬだろう。
だが、絶対とは言えない。
落下中という状況ながらも、危なげない動作で、手に提げていた大剣を動かす。
片手で峰を、片手で刃を握り、切っ先を己に向ける。
真紅の刀身を熱の無い目で見つめ、彼は躊躇いなく腕を動かした。
厚い刃は抵抗なく体内に潜り込んだ。曲線を描く刃が、滑らかに身を切り裂いていく。
よほど切れ味が鋭いのか、双方の目的が一致しているためか、武骨な大剣は易々と肉を割き、心臓を貫いた。
この光景を、彼らに見せるわけにはいかなかった。
亡霊が亡霊を喰らう様など、ハッピーエンドを迎えた物語を締めくくるには相応しくない。
口内に生温かい液体が溢れる。
ただの剣に心臓を潰されようと痛手にはならないが、悪魔を殺すためだけに研ぎ澄まされた刃ならば話は別だ。
魔剣は悪魔を滅ぼすという目的の下に生み出された。
中でもアルハザードは契約者を削り喰らう性質を持つ。
双方を合わせれば、完全に己を喰い尽くせると踏んだのだ。
命を貪られながら破壊を与えられ、体が震えた。背からわずかに突きだした剣先から鮮血が滴る。
沈みゆく意識に反して記憶の断片が浮上し、切り替わっていく。
真っ先に浮かんだのは、最も満たされていた頃の光景だ。
幸福を共有しながらも、遠からず訪れる別れを憂いていた。
人間が生きられる時間は、始祖にとって束の間の夢に等しい。
空虚だった己を満たしたもの。作り物の体や魂でも、偽りではないと感じられたもの。それを与えてくれた相手は、いずれいなくなってしまう。
人間は永遠の時間を生きられない。滅んでも蘇る肉体を備えてはいない。
絶対に変えられぬ事実を前に、人間が思いもしない考えが浮かぶ。
この世に留める方法は、無いわけではない。
始祖たる彼が直接魔力を注ぎ込めば、新たな生を与えられるかもしれない。
闇の住人として。
魔力を注がれても、ただの骸となる者が大半だ。使徒として永遠に近い時間を得ても、望みは叶わない。
彼女が彼女のままでなければならない。
そんな都合のいい夢物語が実現する可能性など、奇跡にも等しい。
そこまで考えた彼は瞼を閉ざし、首を微かに横に振る。
可能性の問題ではない。
本人は人間として生き、死ぬことを望むだろう。己の欲望と彼女の意思、どちらを優先すべきか、答えは明らかだ。
何より、彼女をこの手で殺すことなど――自ら未来を奪う真似など、できるはずがない。
そう思いながらも、共に歩んでいきたいという想いを捨てることができない。必ず訪れる別れをどう迎えるべきか、答えは出なかった。
それでも、彼女と過ごす日々がもう少し続いていれば、もっと別の形で訪れたならば、その後の歩みは変わったかもしれない。
暗い空に月が浮かんでいる。薄い闇の中で叫びが上がる。
牢に入れられた彼女を救出しようと赴き、拒絶された彼は、己の首を狙う者達を待ち受けた。
危険をおして夜に狩りが行われたのは、彼の力を目にした者達が一刻も早く滅ぼすべきだと主張したためだ。
討伐隊の中には戦友の顔もあった。悪魔の仲間という嫌疑を晴らすため、加わらざるを得なかったのだろう。
誰もが相当な実力者だが、彼にとっては赤子も同然だ。瞬く間に皆殺しにするのも容易い。
だが、実行するつもりはなかった。
彼らに苛立ちをぶつける行為に、意味を見出せなかった。
犠牲を出したくないという感情と、自分達の益にはならないという判断が合わさった結果だ。
力を見せれば、関わっていた彼女まで危険視される。これ以上、彼女が守ろうとした者達が、彼女を魔女と恐れる姿は見たくなかった。
何もせずに逃げるのは簡単だ。討伐隊が居場所を突き止めたのも、彼に誘導されたにすぎない。逃げに徹すれば彼らが追跡するのは困難だ。
それを選ぶ気はない。民衆の恐怖や混乱が長く続くのは、望むところではなかった。
速やかに秩序を取り戻すには、悪魔を討った事実が必要となる。
彼女に倣うならば大人しく討たれるべきなのだろうが、そこまではできない。ここで死ぬわけにはいかないという感情が大きいが、彼らでは殺せないという理由もあった。
ただ逃げ出すのではなく、ある程度攻撃させて、倒したと思わせる。そうすることで人々は安心し、元の生活に戻っていける。
描いたシナリオに従い、刃や魔術をその身で受ける。反射的に迎撃しようとする衝動を抑えながら。
身を抉られ、体が揺れる。炎や雷を撃ちこまれ、皮膚が焼ける。手足が重いのは、黒い服が血を吸ったせいか否かもわからない。
幾度目かわからぬ攻撃を浴び、彼は眉を寄せた。大した傷ではないとはいえ、不快であることに変わりはない。
最初から邪眼で精神を操作するなり、魔術で幻を見せるなりすれば、無傷で切り抜けられる。
あえて直接受けたのは、彼女がそういった手段を選ばなかったためかもしれない。
幻を見せるなどして処刑が行われたと思い込ませれば、彼女の危惧した混乱は起こらない。外見を変えていれば、以前と同じように生活できる。ほとぼりが冷めてから元の姿に戻ればいいのだ。
そうしなかったのは、信念が許さないからだ。どれほど完璧に偽り周囲を騙そうと、己の心までは欺けない。
彼女の決断を思えば、なるべく避けたかった。
彼らの血を啜り傷を癒せと叫ぶ本能を無視して、機を窺う。
頃合いだと判断した彼は、自我と誤認させるための魔力を残し、その場を去った。
離れた場所で顔に流れる血を拭い、息を吐く。
逃走は初めての経験だった。
以前ならば手負いの獣のような己の姿を新鮮な心地で観察しただろうが、今はそんなことはどうでもよかった。
視界を染める血の赤が、焔の赤へと変わる。
色彩を感じていた頃の記憶の、最後の部分だ。
磔にされた人間とそれを包む炎から、視線を逸らすことができなかった。
彼女が焼かれる間、彼は別の熱を感じていた。
悪魔だと知った仲間の視線が蘇る。不安や懐疑、恐怖、拒絶の色を思い出し、呟きが漏れる。
「……何故」
彼は、一方的な被害者ではない。何の落ち度もなく糾弾された犠牲者ではない。
彼には罪がある。
混沌型の吸血鬼を誕生させたという、消えない罪が。
人を傷つけることをよしとせず隠遁を選んだが、その前に生み出した吸血鬼は世界に残っている。
犯した罪で責められ疎まれるのは当たり前だ。
過去に人間を殺してきた者が、今は殺していない、今後殺すつもりはないと主張したところで、簡単に受け入れられるわけがない。
「何故」
思考を巡らせながら、同じ言葉を繰り返す。
過去は一切関係なく、悪魔だという一点で仲間は敵に回った。
互いに信頼していたはずの者達が掌を返したことに、失望しなかったと言えば嘘になる。
同時に、納得もしていた。
強大な力を持つ悪魔を脅威と見なし、滅ぼそうとするのも当然だ。
人間を襲うよう定められている悪魔が大半で、天敵という前提がある。例外として使命に縛られてはいなくても、衝動が存在していることは確かだ。
潔白の身であれば違ったかもしれないが、実際に人を襲った過去がある以上、害は無いと訴えても説得力に欠ける。
それらを考え合わせれば、彼らの結論を受け入れられただろう。
「何故、貴方が……!」
最愛の相手――普通の人間まで、排除されなければ。
問わずにいられぬのは、己が排斥された理由ではない。
何もしていない人間が、悪魔と同列に忌み嫌われる理由だ。
人々のために身を尽くし戦い続けた英雄が、彼と関わったというだけの理由で命を奪われる。
こみ上げる感情に身を震わせながらも、気づかずにはいられなかった。
彼も同じことをしたのだと。
理不尽に死をもたらした。
悪魔と関わったという理由すら持たぬ者達を殺した。
誰かにとって大切な相手を奪い、失いたくないものを粉々に叩き壊した。
魔女狩りを行った人々のような、自分達の生活を守るという目的すら無いまま。
罪人が裁かれず、無実の者が罰を受けたかのような結末を前に、彼は立ち尽くしていた。
自分を死へと追いやった相手を、彼女は責めなかった。
彼に願ったのは、人間を恨まないでほしいということだけだった。
誰かを呪ってもおかしくない状況下で、他者のことを気遣っていた。
笑みとともに頼まれて、拒めるはずがない。
人間を憎むことはできない。
悪魔を生み出し、彼女を処刑したのが人間ならば、彼女が命をかけて守ろうとした者達も、己がともに闘おうと決意したのも人間なのだから。
唐突に映像が途切れる。
ようやく終焉が訪れるかと思ったが、違った。
「っく……!」
喰らわれた個所が再生し、また破壊され、修復される。欠落する魔力を周囲から強引にかき集めて、構築しようとしている。
心は死を望んでいようと、体は貪欲に生を求め続ける。
生存本能の、最後の抵抗だ。
ここで逃れては、いずれ復活してしまう。虚しい足掻きが実らぬように、力を振り絞る。
「刻よ。我とともに、永久(とこしえ)の眠りに就かんことを」
針の止まった時計を思い描き、己の体と重ねる。
少しの間だけでも、生き延びようとする働きを鈍らせるつもりだった。
魔術を行使するだけの魔力は失われているはずだったが、かろうじて効果を発揮した。
それは、彼の「時間」がすでに止まっていたからかもしれない。壊れた時計は正しく時を刻むことができず、世界ごと巻き戻そうとしたのだ。
己の魔力は一片も残さないという決意を込めて、完全に喰らい尽くすよう改めて呼びかける。
「悪魔を破壊せよ。アルハザード」
凍えた声で命じた彼は、柄に両手をかけ、押し込んだ。
肉厚の刀身や埋め込まれた宝玉が傷口を押し広げながら進む。背からわずかに覗いていた切っ先が姿を現す。
枯渇したはずの血液が大量に零れ、落ちていく。
わずかに開かれた碧の眼に、光は無い。視力が失われ、世界が黒く塗りつぶされてゆく。
(私は、一体……何を、見てきたのでしょうね)
彼女の姿を見、目指したものを知っていたはずなのに、打ち崩そうとしたのだから。
親友や同胞が止めなければ、愛した者が守ろうとした世界を壊すところだった。
(彼女が、守ろうとしたのは)
最後の願いは、他の人間だけでなく彼をも想ってのものかもしれない。
憎悪を力に換える者も復讐で充実感を得られる者もいるが、彼は当てはまらない。無理に恨もうとしたり復讐に走ったりしても、苦しむことになるだろうと。
彼が望んでいない道に踏み込むことが無いよう、導いたのかもしれない。
本当にそういった意図も含まれていたのか否か、今となってはわからない。
どちらにせよ、願いに様々な想いが込められていたのは確かだ。恨まずにいるだけでは、真に実行したとは言えないだろう。憎みこそしなかったが、無数の人間を巻き込み犠牲にしようとした以上、想いに応えたと胸を張ることはできない。
完全に裏切らずに済んだことだけが、唯一の救いだった。
闇に閉ざされた視界に、飛び降りる直前に見た者達の姿が映る。彼らのおかげで、彼女の遺志を踏みにじらずに済んだのだ。
光を失った世界で、親友とその相棒に別の姿が重なる。かつての己と――。
もっとよく見ようとした瞬間、彼の目が見開かれる。
刃が己の血を啜り、肉を貪ってゆく、おぞましい感触。
喰われる。喰われていく。
もう何も見えない。
長い年月をかけて歩み、掴みかけたものは霞のように儚かった。握りしめた手には何も残らなかった。
仮に何かが残っていても、己の存在ごと無くなる。全て食いちぎられ、噛み砕かれ、呑み込まれる。この目に何が映ろうと、泡沫の夢にすぎなかった。
わずかに残った感覚すら痛みに押し潰される。
それも長くは続かないはずだった。
安堵のにじんだ微笑を浮かべ、声にならぬ声で呟く。
呻く声は、慟哭のようだった。