アルギズの森の奥深くに、屋敷がある。
訪れる者は滅多にいないが、ここ数日は来客が多かった。
屋敷の主、カオスの友人――レヴィエルもその一人だ。
テイワズ渓谷のガーディアンを倒し、三つ目の封印を破壊した。その帰り、錬金調合を依頼するため、カオスのもとを訪れたのだ。
用事はそれだけだったが、レヴィエルの顔色を見たカオスは、軽く休息を取るよう勧めた。
「少し、休んでいったらどうですか?」
「ああ。そうさせてもらおう」
長い眠りに就く前も、時々カオスの部屋で休憩したり、魔導書を読んだりしていた。何かを頼むのも、大抵はレヴィエルだ。
付き合いが長く、遠慮する間柄でもない。知り合って間もない少女の家でも自分の住居のように振る舞うレヴィエルが、今さら気にするはずもない。
カオスの部屋に入ったレヴィエルの目に留まったのは、何の変哲もないベッドだった。
以前は壁際に一つだけだったが、隣にもう一つ。
増えている分は、使い魔が使用するのだろう。
使い慣れている方に腰を下ろし、何となくもう一つのベッドに視線を向けたレヴィエルの意識に、引っかかるものがあった。
以前からあった本棚が、どことなく記憶とは異なっている気がした。
立ち上がり、近づいていく中で、かすかな疑念は確信に変わってゆく。
片付けなど考えず、適当に抜き出していく。
ほぼ魔導書で埋められていた本棚に、様々な書物が並んでいた。
料理。裁縫。薬草の種類や効用。医学。チェスのルール、戦法。
どれも難解な本ではない。平易な、今更カオスが読む必要の無いものばかりだ。
(これらも、使い魔の?)
整ってはいるものの、それ以外の印象を与えなかった部屋に、今は形容しがたい空気が漂っている。
空気の正体は掴めないが、何故か少女の家を連想した。
「……わからんな」
あらゆる物事に無関心になっていたはずの友人は、自我を持つ使い魔を生み出した。
手の込んだ真似をするのが趣味だとしても、使い魔を創る必要自体全くないのだ。
戦闘を行わない彼に、戦いのための駒は必要ない。身の回りのことをさせるためだとしても、単身で大抵のことはこなせるはずだ。
長年森の奥で一人暮らしてきたのに、今になって誰かとともに過ごす理由がわからない。
面白いものを見つけて気が変わったかとも思ったが、檻のような世界に絶望しているのは変わらない。
(この牢獄から逃れる術があるならば――)
考えるのも面倒になったため、本から視線を逸らす。疲労のためか、他に原因があるのか、心なしか思考が鈍っている気がした。
身を横たえると、眠気が襲ってきた。
すべきことがあるのは久しぶりだった。
力を奪われたのは不本意だが、予定が埋まるのは悪くない。
そう仕向けた相手はすぐ近くにいる。来訪を歓迎する友人がやったと、レヴィエルは確信していた。
己を陥れた相手の屋敷で休むなど並の神経ではできないが、レヴィエルは気にしていなかった。
「変な奴だ」
狩る気はないのに、レヴィエルが連れてきた少女を獲物と評し、酷薄な笑みを浮かべる。
マクスウェルとの戦いなど危地へ誘導しておきながら、倒れれば希少な植物を提供して治させる。
倒れている間何があったか知らされてはいないが、予想はつく。いくら生命力に恵まれていても、あれほど強力な呪いならば回復に数日かかるはずだ。短時間で癒えたのは、ここでしか手に入らない神草クラスの薬草を使ったとしか思えない。カオスが領域から出るとは思えないから、人間の娘が無謀にも魔獣の巣に踏み込み、愚かにも頼み込んだのだろう。
(……余計な真似を)
思わず舌打ちする。
苛立ちが募るため、思考を旧友の行動に戻す。
危地に誘導する一方で助ける。これは、刺激を欲しているレヴィエルの意向を尊重しただけと言えなくもない。危機に晒されようと、退屈を紛らすことができれば構わない。むしろ、危険であればあるほどレヴィエルには望ましいと、カオスもわかっている。
情報を提供しただけで、介入する気は無かった。あの少女がいなければ動かずにいた。そう考えれば、矛盾と言うほどの行動でもない。
解せないのは、力を奪う結界を張っておきながら、取り戻すのを望んでいる節があることだ。各地のガーディアンを配置したのもカオスだろうが、やることがいちいち回りくどい。直接妨害はせず、錬金などでこちらに協力している。
(何故――)
それ以上に不可解なのは、追及する気が起きぬことだった。
以前の自分ならば、カオスが裏で動くならば興味を持っただろう。
同胞の争いに介入せず中立を貫いてきた男が、敵対するような行動をとっている。
ならば、期待せずにはいられない。
己に挑んでくることを。互いに命を削り合うことを。
自分が全ての力をもって戦うに値する、数少ない相手。その人物が、ようやく期待に応える気になったかと歓喜したに違いない。
己を潰しに来るならば、上回る力でねじ伏せる。そうすれば、ほんのわずかな間でも渇きを癒すことができる。虚無感を忘れ、生を実感できる瞬間を待ち望んでいたはずだ。
それなのに、興味が湧かない理由は。
気にかかるのは。
少女の顔が鮮明に浮かび、彼は意識から追い出そうとした。
(ありえんな。私を苛立たせるばかりだというのに)
今までにないほど不快な心地にさせられる人間。
(初めてだ。あんな人間は)
いつもいつも心を波立たせる、理解しがたい存在。
「……くだらん」
片手で捻り潰せる相手に興味を持った経験など、数千年の中で皆無だ。
高い実力を持つでもない人間を気にかけるなど、考えられない。
殺さずにいるのは、いつまで戯言を口にしていられるか、知りたいだけだ。
そう結論付けた彼は、落ち着かない気持ちで瞼を閉じた。
レヴィエルが起きる頃には、窓の外は紅く染まっていた。
客を迎える間に行くと、いい匂いが漂っている。
シルフィールが料理を準備し、カオスは指を鳴らしてテーブルに皿を並べている。
「目が覚めましたか、レヴィエル。もう少しゆっくりしていっても……と、言いたいところですが」
レヴィエルの方を向いたカオスは言葉を切った。
今までならばついでに食事も勧めただろうが、カオスはそうしなかった。
「そろそろ帰った方がいいでしょう」
「……?」
「冷めてしまった食事は美味しくない。……そう言ってましたよ?」
作るのは母親だが、少しでも美味しく食べてもらいたいと思っている。
異論を挟まず外へ向かったレヴィエルの背に、カオスは笑みを投げかけた。
本来ならば規則正しく食事を摂らずとも、連日民家に宿泊せずとも、さほど支障は無い。戦うために造られた身なのだから、よほど疲労が蓄積されない限り、安息は求めない。料理が美味ければ――寝床が柔らかければそれに越したことは無いが、煩わしい思いをするくらいならばレヴィエルは野宿を選ぶだろう。
戦闘工芸の最高峰が、律儀にあの家に帰り、大人しく泊まっている。
(なかなかに面白い)
共感しがたい意見ばかり述べる少女など、今までの彼ならば切り捨てて終わったはずだ。
本来、獲物と捕食者の関係だ。つながりは、細く、頼りない。彼が断とうと思えば容易くできるのに、そうしない。
軽く顔を伏せたカオスの目元が金髪で隠れ、笑みだけが覗く。
二人は自分と同じ道を辿るかもしれない。そうなった時彼らが何を思うか、どう行動するか、興味があった。
同時に、そんな日が来なければいいと思う。
浮かんできた考えに、彼は己を嘲笑した。
「おかしな話、ですね」
自分が計画を実行に移せば、全て消えてしまうとわかっている。
自ら叩き壊そうとしておきながら、壊れる様は見たくないと言うのは矛盾している。
二人の縁が切れないことを望むならば、再構成された世界で誘導すれば済む。好きなように操作できるのだから、幸福な結末を迎えさせることも可能だ。
過去へと遡り自在に改変する――多くの者が夢見るであろう、神のような力。それを振るえば容易い。
作り物の世界や仮初の命と言われればそれまでだが、元々人を滅ぼすために生み出された兵器だ。身も魂も全て作り物の存在が、本物と模造品の違いに拘泥する理由は無い。
迷う必要など、どこにも無い。
「……くだらない」
停滞した世界に終止符を打つという一念で、準備を整えてきた。
夢の叶った世界で、幸福な物語を紡ぎ上げる。
それこそが、それだけが、望みのはずだ。
(偽り。欺瞞。まみれているのは――)
その先を心から追い出し、彼は扉に背を向けた。