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ひよこの足跡ブログ

漫画やゲームなどの感想を書いています。 ネタバレが含まれることもありますので、ご注意ください。

The last sacrifice

ノクターンSS『The last sacrifice』



 月の綺麗な夜は、苦しかった。
 煌々と照らす満月の下で青年が息を吐いた。樹に寄りかかるようにして身を傾け、顔を伏せ、呼吸を整えようとしている。
 体調が悪いわけではない。
 逆だ。
 体の奥底から力が湧き上がり、隅々まで行き渡る。身体を構成する魔力が歓喜し、解放を求めている。
 苦痛に耐えるように、彼は拳を強く握り込んだ。
 研ぎ澄まされた感覚は、えもいわれぬ香りを捉える。
 獲物――人間の血の匂いを。
 逃れるため森の奥で暮らしているというのに、血に飢え、鋭敏になった感覚がそれを許さない。
 ヒトの首筋に牙を突き立てたい。温かな液体で喉を潤し、心ゆくまで貪りたい。
 始祖の性がそう訴えている。
 この世界の一般的な吸血鬼と違い、彼は人の血を取り込まずとも生きていける。
 それでも衝動がこみ上げる。
 屋敷の中で身を休めていても、操られるように出てきてしまうほどに。
 視界が紅く染まる中、彼はそれ以上呑み込まれまいと掌に爪を喰い込ませた。
 固く、固く、瞼を閉ざし、波が低まるのを待ってゆるゆると息を吐き出す。
 仲間のように、戦闘の中で生を実感できるならばよかったかもしれない。
 力を解放し、獲物を蹂躙し、血を啜って快楽に溺れる。そうすれば、わずかな間でも虚無感から逃れることができる。
 それに抵抗を覚える彼がいた。
 耐えがたい渇きを抑えつけるのも幾度目か、もはや忘れてしまった。
 砂漠のような世界を、心に虚無を抱えて彷徨ってきた。
 色褪せた世界の中で、夜空の月と血への渇望だけが鮮やかに映った。
 
 何度見たかもわからぬ美しい月を見上げ、彼は瞼を閉ざした。
 今彼がいるのは、隠遁していた屋敷の近辺ではない。町の中でもひときわ大きな建物の屋上に立っている。
 今宵は相方がいた。
 何千年もの間変わらなかった彼の心に、鮮やかな風を吹き込んだ人間の娘が。
 覇王ギルバードの支配に対して立ち上がり、新たな時代を築くために戦った者達が、勝利を収めた。
 彼もそれに手を貸した。彼女らに助言を与え、導いてきたのだ。
 夜風が二人の髪を撫でていく。
「月が、綺麗ですね」
「ええ。本当に」
 風の精霊の名を持つ人間は、憂い顔ながらも笑みを浮かべてみせた。
 こうして二人で見上げていると、月が美しい夜も楽しめる。
 感慨深げに息を吐いた彼の背に、陽気な声が突き刺さった。
「シルフィールー! カオスさんも、飲みましょうよー!」
「おい、邪魔しちゃまずいんじゃ……!」
 空気をぶち壊した女戦士に続いて、栗色の髪の若者が階段から姿を現した。慌てて連れて行こうとする彼の腕から逃れ、女戦士はそばかすの散った顔でにっと笑う。
「これから忙しくなるから、英気を養いましょう! ……気持ち、切り替えないと」
 窘めようとした若者は、彼女の表情が一瞬曇ったのを見て声を落とした。
「仲間のことを思うと辛いが……踏ん切りつけないとな」
 犠牲になった者達への想いが心に影を落としていても、今は前を向かねばならない。
 彼らが守った人々の生活を安定させるために、奔走しなければならない。混沌の時代に戻っては、彼らに合わせる顔が無いのだから。
 月を見上げていたシルフィールも同じ気持ちだったのだろう。
 赤髪の女戦士に続いて二人が階段を下りていくと、喧騒が耳を打った。
 戦いを終えたばかりの彼らは、包帯を巻いたり、薄汚れた格好をしたりしているが、どの表情も活き活きとしている。
 カオスの眼に納得したような光が灯る。
(また一つ、疑問が消えた)
 すぐに死ぬのに必死で何かを成し遂げようとする人間を、ずっと前から不思議に思っていた。行動をともにして、理解できたような気がする。まだ明確な言葉でまとまってはおらず、感覚に近い。いずれ理論立てて説明できるようになるだろうと彼は思った。
 未来を見据える彼らにカオスは笑った。
「では、私はこれで」
 宴の場から遠ざかろうとした彼の肩を若者が掴み、幾人もの男女が囲む。
「俺達がこうしてられるのも賢者様のおかげだ。アンタがいなくちゃ始まらねえ」
「お礼を言わせてください。何度も助けられたんですから」
「お酒、どうですか?」
 口々に話しかけられ、彼は「はあ……」と曖昧な答えを返した。仲間だ、戦友だと呼んでくる人々を興味深げに観察する。
 石造りの建物内には熱気が立ち込め、中にいる者達はますます興奮していく。ひとしきり騒いで、ぐっすりと眠り、明日への力を取り戻そうと。
 彼らはカオスやその傍らの女性の功績を讃えた。
 革命戦争の英雄達。
 戦いの中で命を落とした剣聖フィアーネ。
 軍師シルフィール。
 そして賢者カオスの名が続くはずだった。

 悪魔――アヴィルトという語は『古代の病魔』から来ている。
 彼らは滅ぼされても蘇り、人に破壊と絶望をまき散らす。
 まるで人類を蝕む病のように。
 激しい戦いが終わり、人々が疲弊しきっていた時に、彼らは牙を剥いた。
 数は多いが、個々の力は人間でも対処が可能なレベルだった。ほんの少し時期がずれていれば波乱も無く片付いただろう。今までのようにカオスは指示だけで終えることも、それが厳しければ人間の範囲内の魔術で応戦することも可能だった。
 まともに戦えるのが彼一人という、ごく限られた時期でさえなければ。
 カオスとて周辺の魔力を観察し、人間の戦いの邪魔にならぬよう悪魔現出の予測と対策は行っていた。
 ただの巡り合わせは時として、知略や思惑を超えて残酷な結果をもたらす。誰が招いたものでもないかすかな綻びが連鎖し、不運が絡み合い、牙を剥いた。
 火の手が上がった。
 人に害なすことを喜びとする者達が歓喜に跳ねる。
 戦う力を持たぬ人々を守ろうと戦士達は奮闘するが、面には疲労の色が濃い。長い戦争が終わったばかりで疲労の限界に達していた。いくら的確な指示を出しても、大勢の犠牲者が出ることは免れない。
 己に贈られた槍を手にシルフィールが必死で策を練る。これ以上誰も犠牲にならないよう、答えの見つからぬ問いに挑んでいる。
 その場にいた人間の目が見開かれた。
 混沌の名を持つ賢者が前に進み出たのだから。手に、見慣れぬ形状の杖を持って。
「賢者様……!?」
 彼が今まで披露してきたのは知識や洞察力だ。直接戦う姿は見たことが無い。
「少々魔術が使えます。下がっていてください」
「そうはいきません!」
「おれも、戦います……!」
 引き留めようとした若者は、カオスの視線を浴びただけで動けなくなった。カオスに退く気は無いと察し、傷ついた身でともに闘おうとした人間もいたが、それも止まった。
 魔導師が連携も無く多数の敵に立ち向かうことは困難だ。あっという間に力を使い果たしてしまうだろう。鎧もつけていないのだから、攻撃を浴びればすぐに絶命してしまう。
 誰もが抱いた考えをカオスは否定する。
 完璧に。完膚なきまでに。

 そこから先の出来事を語る者は少ない。歴史の影に隠れた物語を知る者は、ほとんどが口をつぐんでいる。
 力の差は歴然としていた。
 彼の一瞥で低位の悪魔はことごとく命を奪われる。
 あらゆる属性の魔術が放たれ、敵を殲滅する。
 速やかに倒さねば被害が広がると焦っていた者達が、何を危惧していたかも忘れる光景が繰り広げられた。
 その力から吸血鬼を連想する者もいたが、比べ物にならない。
 幾本もの刃に胴を貫かれ、肩を半ばまでちぎられ、血に染まりながらも、彼は倒れない。仲間を庇っての惨状だが、その姿さえも恐怖の対象となった。
 今まで力を見せようとしなかったのは、正体を知られたくなかっただけではない。
 か弱き人々が力を合わせ、達成したという構図を崩さないためだ。人に非ざる異質な力でねじふせても国民は納得しないだろう。恐怖をもって君臨した覇王と同じではないかと、非難の声が上がるかもしれない。
 構図が受け入れられなければ、すぐに新たな火種が顔を出す。争いも長引くことになる。
 化物相手の戦いだからこそ、今回彼は出てきた。
 全てが終わった後、辺りは凍りついたような沈黙に包まれていた。
 消耗し、膝をついた彼に近づこうとした者もいたが、塞がりつつある傷を見て顔をひきつらせた。
 手当てしようとしたシルフィールの面は翳っている。これから起こりうる事態を予測したためだ。
 予想は的中した。
「ば……化物……!」
 ロード・ヴァンパイアをも超える吸血鬼と考えた者。高位の悪魔だと思った者。人によって違うが、彼が人間でないということは、誰もが理解していた。
 知識に感服していた若者が青ざめ、現実を否定するかのように首を横に振る。明るく笑いかけてきた女戦士が身を震わせる。
 過酷な戦いを経験してきたはずの者達が、子供のように怯えている。人間同士の長い戦争の後だからこそ、違いが身にしみて感じられたのかもしれない。
 形成されつつある空気に対抗する手段は、カオスでも思いつかない。
 魔術や戦略についての知識は豊富でも、こと戦闘に関しては瞬時に答えを弾き出す頭脳も、解決策を導けずにいる。
 いくら個の力が優れていても、民衆という大きな力の前には押し流される。
 そのことは彼もよく知っていた。
 翡翠の眼がシルフィールを映した。彼女は口を開こうとしている。受け入れるよう説こうとする気配を察し、彼は速やかに決断した。
「滑稽、ですね。正体も知らず笑っていたとは……呑気なものです」
 声に嘲弄を漂わせたのは、印象付けるためだ。
 彼女は何も知らなかったのだと。
 正体を知っても変わらず接していたことが露見しては、彼女に累を及ぼすかもしれない。それだけは何としてでも避けたかった。

 冷ややかな声音で告げる彼に、怒りのこもった視線が突き刺さる。
「どうして、今まで……!」
「おそらく……貴方達が想像した通りですよ」
「カオス君ッ!」
 はぐらかすような答えに男が声を上げた。試すような物言いに、仲間である我々を見くびるなと叫びたくなった。カオスが協力してきた理由くらい、理解できるつもりだ。
 本心を告げるよう促そうとした男は、周囲の暗い目に気づき愕然とした。正体を隠していたのも、力を貸したのも、「獲物を狙うため」「強者の残酷な気まぐれ」と考える者が少なくはないことを知ったのだ。本心を告げたとしても、彼らは信じそうにない。
 嫌な感覚がこみ上げ、男は顔を曇らせた。彼がどんな人物か、知っている者が大半だと思っていた。苦楽を共にし、強い絆で結ばれていると信じていた。
 それがこの有様だ。
 今まで話さなかったのが原因でこの状況が生じたかもしれない。だが、明かしていても、同じ結末を迎える可能性は低くはなかった。
 ともに困難を乗り越え、力を衆目に晒した理由を知っていながら、拒絶したのだから。
 青年はこの何倍も苦い思いをしていると思うと、男の心はますます沈んでいく。
 苦痛に耐えるように唇を噛んだシルフィールの肩を抱き、女戦士がカオスを見つめた。必死な光が瞬いている目には、涙が浮かんでいる。
「あなたが、私達と関わったのは――」
 震えながらも信頼をにじませた声を、別の声が遮った。
「血を……吸うためじゃないのか?」
 彼の能力と吸血鬼を結びつけた者が声を上げると、呟きは瞬く間に伝播していく。好意的に捉えようとしていた者達の心を塗りつぶしていく。染まらない者もいるが、少数だ。大きな波を押し返すことはできない。
「で、でも、人を襲わなかったじゃない。それは私達だって知ってるのに」
「裏じゃ何やってるか――」
「そうだ……隠していたのがその証拠だ。やましいことが無ければ話したはずだ、違うか?」
「話したところで、こんな風に――あの人が何のために戦ったのか、忘れたの!?」
「人じゃない! 人間と悪魔の関係なんて決まってる」
「落ち着くんだ。助けられたのは事実だろう。それも、何度も」
「だが……!」
 会話は短い間で交わされ、声も大小様々だったが、彼の耳にははっきりと届いた。
 ここまで一気に崩壊したのは、大きな戦争が終わった直後で、動乱から立ち直っていない時期だからだろう。
 ただでさえ平静さを失っている状態で、事件が立て続けに起こった。理性で処理できる範囲を超え、熱に浮かされたようになっている。
 皆が疲弊していることも大きい。戦力が極限まで低下していなければ、もう少し落ち着いて構えることもできた。
 敵の数は多かったものの、普段ならば対抗できる相手に何もできなかった。それだけでも危機感を覚えるには十分すぎるのに、次元が違う存在が現れた。まともに向き合うのは難しい状況だ。
 ほんの少し時期や状況が異なっていれば、風向きは違ったかもしれない。

 言い合う人々から外れた者が訊いてくる。怖くないと己に言い聞かせようとしながら、怯えの隠しきれない目を向けて。
「誓えますよね? 人を襲ったことなんて……誰かの血を吸ったことなんて無いって!」
 質問を耳にしたシルフィールは眉を寄せた。青年の内心を想像すると胸が痛んだ。最も肯定したいのは彼だろう。その通りだと即座に答えたかったはずだ。
 実際は、そうできずにいる。この世界には混沌型の吸血鬼がいるのだ。数は少ないものの確実に存在し、遥か昔に人の血を啜ったと証明している。
「どう、して……」
 質問した者は顔をゆがませ、反射的に後退した。問いを聞きつけた者がシルフィールにも目を向ける。
「あの娘に近づいたのは、獲物として」
「喉を噛みたいと――」
「おぞましい」
「もしかすると……」
 囁きが混じり合い、疑念は確信へと変化してゆく。
 毅然とした面持ちで口を開こうとした彼女を、カオスは目で止めた。理をもって諭そうとしても、関わりの深い彼女は発言するだけで同類と見られかねない。中立的に語っても、怯えている者にとっては盲目的に庇っているように聞こえるだろう。
(……レヴィエル。どうやら、貴方と似た道を辿りそうです)
 かつて人間から魔王と恐れられ、やがてその名を忘れられた旧友へと呟く。一時は人間から賢者と敬われた名も、歴史の狭間に消えてしまうだろう。
 肩書に未練は無い。
(失いたくなかったのは――)
 カオスは瞼を閉じた。
 助言をもとに力を合わせ、前進していく人々を見るのは楽しかった。目的を果たし、満たされた表情の彼らを見た時、確かに喜びを抱いた。短い時間を懸命に生きようとする姿や、悪魔にはできぬことをやり遂げる姿に、彼の方が教わったことも多かった。ささやかなものに意味を見出せる彼らこそ、賢人ではないかと思ったこともあった。
 己とは異なる思想、力、生き方を近くで見られる位置に、居心地の良さを感じていた。
「……さて」
 目を開け、己のなすべきことを考える。
 革命戦争の主要人物としての立場は失った。相応しくない者は退場するだけだ。この場の混乱を治めるためにも、それしかない。
 いなくなってほしいと思いながらも恐怖から言い出せない者。ひたすらに困惑や拒絶を浮かべる者。いまだ信頼を向ける一部の者。彼らを睥睨し、皮肉げな笑みを向ける。
「幸運にも難を逃れたその命……せいぜい長らえるといい。短い時間を、必死に生きるといいでしょう」
 様々な視線を背に浴びながら、彼は姿を消した。

 町の外まで出、彼は歩む速度を落とした。
 感じたことのない疲労が全身を蝕んでいる。
(己の正体を隠しながら。それでも仲間だと、認めてもらえると……?)
 仲間だからといって、何もかも話すべきだと思ってはいない。沈黙が信頼を示すこともあるだろう。
 だが、今回は明らかに違う。
 彼が黙っていたのは、信じていなかったからだ。自分は他人を信じていないにも関わらず、他人に受け入れてもらおうとしていた。
 不信に不信が返されたと言えばそれまでだ。同じ結末になる可能性が高くても、彼の方だけでも信頼していれば違ったかもしれない。
「……浅ましい」
 低く呟き、溜息を吐く。
 先ほどの戦いは、人の形をした兵器――化物と思われても仕方のないものだった。
 怪しまれぬよう力を抑えて戦うという選択肢は、最初から除外した。加減していては、間違いなく犠牲者が大勢出た。
 愛する人間が何を優先するか、守りたいと思っているか、知っている。彼女の歩んできた道のりを見ておきながら、看過する道を選べるはずがない。
 町の方を振り返った彼に不安が忍び寄る。
 自分一人が去れば片付くと思ったが、目に見えない大きなうねりはまだ犠牲を求めているかもしれない。新たな時代を築く前の、最後の生贄を。
 己に最も近い位置にいたのは彼女だ。
 彼女が「恐ろしい悪魔」を庇い立てしては立場が悪くなる。状況の悪化を防ごうとして去ったが、食い止められたという保証はない。
 力を貸してきた相手だろうと、仲間だと認めていようと、異質な存在だとわかれば掌を返した。
 異種族だけでなく、人間にも同じことをしないとは言い切れない。たとえそれが、多くの人間のために力を尽くし、身を捧げた者であっても。
 あの場には仲間以外の人間もいた。たとえ仲間が口をつぐんでも、他の人間から今回の出来事は広まるだろう。
 彼は、安心できる材料を探そうとした。
 大人しく去った悪魔をわざわざ刺激するなど危険な行為だ。恐ろしさを知ったのだから、敵に回してはまずいと判断する者も多いだろう。
 怒りを買う真似は避けたいという理由以外に、彼女を排除できない理由が彼らにはある。剣聖が命を落とし、賢者が消えた今、率いる人間が必要だった。新たな時代を築くため、貴重な人材を失う事態は避けたいはずだ。
 考えながらも、希望的観測に過ぎないという声が聞こえてくる。

 鈍る足取りを叱咤し、今戻ってもできることはないと述懐する。
 彼女に対して害を加えようとする者達を力で排除することは、どれほど容易くても実行には移せない。
 かといって、人を襲いはしないと彼らに訴えても効果は無いだろう。
 聞く側に受け止める意思が無ければ、どんな言葉を用いようと意味をなさない。
 語る彼の方も己の危険さは承知しているのだから、言葉に力が欠けてしまう。過去に吸血鬼を生み出したのも、人の血に対して渇きを感じることも、悪魔の中で特に大きな力を持つことも、全て事実だ。
 守るために振るわれたものであっても、人を超えた力を目にした彼らの心は、ほぼ同じ色に染まっていた。
 あれ以上留まっていては、恐怖と疑心を煽る一方だった。
 彼女とともに去ることも考えたが、できなかった。彼が無理矢理連れ去った場合、後で彼女が姿を現しても「すでに魔の存在の毒牙にかかっている」と思う者が大半だろう。彼女が大人しく従ったと思われるのもまずい。「自ら闇の眷属に身を捧げた魔女」と見なされる。どちらにせよ彼女は社会的に葬られる。
 もちろん、いよいよとなれば連れて逃げるつもりだ。
 だが、彼女はそれを望まないだろう。彼も、留まることができるならばその方がいいと思った。
 彼女は、人の中で、人として生きてきたのだから。
 今考えうる中で最も望ましい形は、彼女が悪魔との関わりを否定し、それを周囲が受け入れること。悪魔の中でも例外だと、自分もしくは彼女が説明し納得させる道はあまりにも現実的でなかった。
 「狡猾な悪魔に狙われたが逃れた、幸運な被害者」だと訴えれば、害が及ばずに済むかもしれない。
 だが、彼女はそうしないだろうという想いもある。
 彼の知るシルフィールは、己の身可愛さに誤魔化しや偽りを口にすることはない。彼について公正に語ろうとするかもしれない。
 彼女を彼女たらしめる美点が、彼女を危地に追いやってしまう。
 そうなれば、待つ運命は――。
「……喉が、渇いた」
 夜空を見上げると、月が冷やかに見下していた。
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