ガッシュSS『教導』
煙突つきの一軒家の門が開き、静かに閉じられた。
家の主は旅行から帰ってきたのか、大きな鞄を肩から下げている。
立派な髭を蓄えている彼は、背丈こそさほど高くないものの、威圧感を漂わせている。
彼の名はグスタフ。魔界の王を決める戦いにパートナーとして参加していた。
グスタフは黙って室内を見回した。
他に誰もいない部屋は、随分と広く感じる。
ひとまず煙草をふかしつつ、グスタフは暖炉に目をやった。
かつてここには魔物がいた。
心に安寧をもたらす相手などではない。
木炭をかじる。
大事なワインを勝手に飲む。
家に満ちていた空気を、何度もぶち壊した。
今、この家は静かだ。
青い魔物は嵐のように現れ、去っていった。
荷物をある程度片付けてから、ワインの封を開ける。秘蔵の品を味わうのは、もう少し先になる予定だった。
祝福の気持ちを込めて、杯を傾けるはずだった。
魔物との出会いは、文字通り衝撃をもたらした。
聞いたことのない音とともに、家が揺れる。
全く困惑しなかったと言えば嘘になるが、一瞬停滞したグスタフの思考はすぐさま動き出す。
(屋根からか)
野生動物の仕業か自然現象か判断しかねるが、ひとまず確認すべきだろう。
梯子を上ったところ、グスタフの眉間にしわが刻まれた。
煙突からにょきりと、二本の足が突き出している。
たっぷり数秒間、グスタフは言葉を失った。
ここまで驚いたのは何年ぶりか忘れてしまった。
呆然と眺めていると、足が動く。
訳が分からないまま足を掴み、ぐいと引っ張ると、青い衣を纏った体が出てきた。
闖入者の格好も、グスタフには見慣れないものだった。
頭部から、立派な角が二本。道化師じみた尖った靴に、長く伸びた裾。空色の目の下には線が刻まれている。
映画の撮影かという考えが頭を掠めたものの、メイクなどには見えない。
人間ではありえないという結論に辿りつき、己の正気を疑うグスタフの前で、化物は煤だらけの青い服を叩く。
ふと、煙突のそばに本が落ちていることに気づいた。コバルトブルー色の表紙だ。
「お前は……?」
グスタフの問いに、汚れが取れた魔物が向き直り、威勢よく名乗った。
「オレの名はヴィンセント・バリー。あんたがオレのパートナーか?」
ひとまず屋根から降りたグスタフの目の前に、バリーは軽やかに着地した。
屋根から飛び降りて平然としている彼は、右手を前に突き出した。グスタフに、本を読んでみるよう促している。
グスタフは警戒しつつも受け取った。従わなければ、目の前の若者はやかましく騒ぎ立てるだろう。
ゆっくりと本を開き、目を走らせる。バリーの方は少し離れ、横を向き、何かに備えている。
グスタフが唯一読み取れた単語を小さく呟くと、角から光線が放たれた。
バリーは満足そうに頷き、声を弾ませる。
「やっぱりあんたがパートナーだな」
「パートナーだと?」
「ああ、それはだな」
バリーの説明を、グスタフは黙って聞いていた。
魔界という異世界がある。魔物がいる。
おとぎ話じみていて現実味が薄いが、目の前の魔物を見れば信じざるを得ない。
「全く動じねえ、か。人間にしちゃ肝が据わってるじゃねえか」
驚いたが、顔に出なかっただけだ。この時ばかりは、グスタフは己の厳めしい顔に感謝した。
バリーの話はまだ続く。
人間界では、本の持ち主である人間が呪文を唱えることで、魔物は術を行使できる。
魔物の子が人間と組んで戦い、魔界の王を決める。
「ただ目の前の敵を倒していけば……それだけで王になれる」
「フン」
あまりに単純な考えに、思わず笑いが漏れた。
「本当にそれだけか?」
「どういう意味だ?」
不思議そうに聞き返す若者の面は、意外なことを聞いたと言いたげだ。自らの言葉を欠片も疑っていない。
(まるでチンピラだな)
真っ先に浮かんだ感想はそれだった。
彼がそれなりの実力を備えているのは見て取れる。喧嘩で負けたことなど無いのだろう。
その延長で、王を決める戦いに挑もうとしている。
(……さて)
言葉にするのは簡単だ。
どんな王になるか考えもしないで、なるつもりか。
腕っぷしが強いだけでは、本物の強者には勝てない。
志を持て。
言うだけならば容易いが、今の彼に告げたところで、心に響きはしないだろう。
順調に歩んできた者に、今までのやり方では駄目だと言ったところで実感できない。
疑問を抱かなければ――自ら変わろうとしなければ、意味はない。
今の時点で懇々と説き伏せる道もなくはないが、優しく言い聞かせるのは苦手な性質だ。
この場で万の言葉を重ねるより、実際に目にした方が早いだろう。
「さあな、自分でよく考えな」
グスタフの返答にバリーは曖昧に頷いた。何をどう考えればいいのかさっぱり分からないと表情が告げている。
(先は長いな)
嘆息したグスタフに、バリーは語りかける。
「オレと戦ってくれ。にんげ――グスタフ」
言葉を飲み込む気配がした。
乱暴に押しきろうとして、ぐっと堪えたのかもしれない。
丁重な態度とは言いがたいが、力で全てを解決してきた若者にしては気を遣った方だろう。頼む側であることを忘れてはいないらしい。
「いいぞ」
「お?」
すんなり承諾されたことが意外だったのか、バリーは目を丸くした。
共に戦う相手として協力を求められれば、応じることも吝かではない。
意気込むように拳を握る若者を眺めつつ、グスタフは煙草に火をつけた。
グスタフは再度本を開き、紙面に目を落とす。
「試してみたい」
「へえ? 積極的だな」
バリーはにやりと笑い、虚空に右手の指先を突きつけた。
手刀を繰り出し、一旦飛びのいたところでグスタフが言葉を発した。
「ゾニス」
渦巻き状の光線が地を抉った。
「ゾニス」
もう一度。同じように抉れた。
「ゾニス!」
今度は、左腕を前方に伸ばし、指先を揃えて詠唱した。
より目映い光が迸り、地を穿つ。
精神が肉体に影響を与えるならば、その逆も当てはまる。
だらしない体勢ならば精神も緩み、背中を丸めれば気分も落ち込む。ならば、姿勢を良くすれば感情も昂るかもしれない。
そんな考えから試してみたところ、威力が上がったのだ。
「ここぞという時に決めるべきだろうな」
一人頷き、淡々と身ぶりを試す男にバリーは目を丸くしたが、満足げな笑みを浮かべる。
パートナーに力への関心や探究心があるのは歓迎すべきだ。
戦いが幕を開け、早速一勝をあげたバリーは上機嫌だった。
人間と組んで戦うことに釈然としない思いもあったが、パートナーであるグスタフは足を引っ張らなかった。
敵と味方、どちらの動きも冷静に観察し、的確に呪文を唱えてみせたのだ。
「やるじゃねえか」
胆力のある者は嫌いではない。力でねじ伏せてきただけあって、実力者は認める流儀だ。
「この調子なら楽勝だな」
浮かれた台詞に対し、グスタフは何も言わなかった。
今後どんな道を辿るか、見抜いているかのように。
ほどなくして、満足げなバリーの表情に曇りが生じた。勝ち続けているとは思えない感情が浮かんでいる。
勝てば勝つほど、苛立ちは募っていく。
「何故だ。何故イライラするんだ……!?」
恐ろしい形相で歯を鳴らす若者を前にしても、グスタフは平静だった。
(悪い傾向ではない)
彼は気づきつつある。何かが足りないことに。
格下の相手を蹴散らして悦に入るよりは見込みがある。
ガッシュ達との戦いで、バリーは欲しがっていたものを手に入れた。
苛立ちがおさまった目は、新たに見出した目標に据えられていた。
何をすべきか問いかける様子は、教師に質問する生徒のようだった。
展望が必要、志が重要――もはやそれらの言葉は必要ない。
夕日を浴びつつ意気込む彼は、久しく見せなかった満足げな笑みを浮かべていた。
グスタフの口元にも笑みが漂う。
心に芯が通った今ならば、彼は力強く前へと踏み出せる。
まだまだ欠けているものはあるが、それらを身に着ける下地が整った。
今後の歩みを思い描き、グスタフは煙を吐き出した。
心に変化があったとはいえ、一度に強者のそれに塗り替えられたわけではない。己を高めるために貫くべき意地と、前進を阻む余計なプライド、どちらも彼の心にあるだろう。
(ならば――)
単純な力ではバリーに劣るものの、心で上回る少年と戦い、得た物がある。
「次の相手は……」
かつてバリーから聞いた、特別な子らに関する話を記憶から掘り起こす。
戦う力も心の強さも彼を凌駕する、本物の強者を。
エルザドルとの死闘の後、バリーは死んだように眠っていた。
傷だらけの若者と違い、己に傷一つない。
敵の行動を予測し、攻撃に備え、なるべく負担をかけぬよう立ち回っているが、それだけで乗り切れる戦いではなかった。
今までの戦いでほぼ無傷でいられたのは、バリーの奮闘によるところが大きい。
攻撃に晒されるのは常に彼だ。
血にまみれながらも限界を超えて戦い、勝利することができた。
強大な壁を乗り越えたバリーは、足りなかったものを手に入れたのだ。
「足りないのは――」
心の内側を探るように、グスタフは瞼を閉ざす。
強くなった若者をグスタフは認め、さらに進むよう促した。
バリーは喜んだようだったが、グスタフは高揚以外の感覚が心ににじむのを感じていた。
今のバリーに足りないものがあっても、魔物自身が解決できる問題ではない。
パートナーが与えるべきものだ。
満ち足りた笑みを浮かべて眠る若者を眺め、煙草をふかす。
己を、血も涙もないとまでは思わない。表に出さないだけで感情はある。
バリーを冷酷非情な、血に飢えた暴君などにさせるつもりはない。
だが、情に厚いかと問われれば、首を横に振るしかなかった。
甘いと評されるような行動を全て否定するほど、頭が固くはない。
優しさから生まれる強さもあると知っている。
だが、自分がそれをバリーに教えられるとは思えない。
指し示すのは、迷うことなく頂を目指す孤高の道。
純粋に強くなることを望む男だからこそ噛み合っているが、温かな言葉や交流を必要とする子供だったならば、早々に破綻していた可能性もある。
バリーにとってこの世界での日々は、高みへと至る巌(いわお)となるかもしれない。
だが、心弾む一時と呼べるのか。
忘れたくない、相手にも覚えていてほしいと望むような、温かいものなのか。
(……気が早いな)
今までもそうだった。
多くの者が悲しみ、途方に暮れる局面で、先のことを考える。悲壮な覚悟を目にしても、見事だと感心はするが、心を痛めはしない。
いつか若者との別れが訪れるだろうが、その時もおそらく悲嘆に暮れることはない。
バリーが勝ち抜いて王になるか。強敵との対決で全てを出し尽くし、敗れるか。
どんな形にせよ、涙を流すことはないはずだ。
予想は裏切られた。
バリーは、頂点に立って凱旋することも、強者との戦いの果てに送還されることもなかった。
彼はまだまだ戦うことができた。高みを目指すという決意も揺らいではいなかった。
他人のために、進めるはずの道を絶った。
「バリー!? 何を……!?」
愕然とするグスタフと同じく、バリー自身も自らの行動に驚いているようだった。
理解できないながらも、捨てられないという叫びには覚悟が込められていた。
ガッシュに語りかける声は穏やかだ。
表情は見えないが、笑っていると確信できる声音だった。きっと、今までにない優しい笑みを浮かべているのだろう。
彼が少年を殴り飛ばした時、グスタフも殴られたような衝撃を味わっていた。
ただ攻撃するならば驚きはしない。
志を持つ相手とも戦えるだけの心の強さを、すでにバリーは備えている。
助けるための行動だからこそ、動揺は深かった。
高みを目指すならば、戦いの道をひたすら歩むことしか教えられないと思っていた。
バリーもその道を進んできて、今後も貫くはずだった。
だが彼は、一人だけで行くことを選ばず、他の相手を進ませた。
教えたやり方を否定されたようなものだが、不快さはなかった。
異なる方法で、高みへと至ったのだから。
「今までの苦労を無駄にしおって……」
戦いのために、国境を越えて旅をした。
費やした時間。払った労力。
それらは決して小さくない。
だが、この瞬間の重さとは比べるべくもない。
憎まれ口を叩いたのは、己の動揺を隠そうとしたのかもしれない。そんなもので誤魔化せるはずもない、虚しい試みだった。
己の意志で制御できるはずの心が、手に負えないほど揺さぶられている。
「お前は、『王をも殴れる男』になったぞ」
不快ではない衝動が手を震わせる。
熱いものがこみ上げ、目から零れる。
拭う気すら湧かず、青い背を目に焼き付ける。大きく成長した、頼もしい背中を。
「でかく、いい男になったじゃねえか」
心からの賛辞を贈る彼は、ぼんやりと感じていた。
「らしく」ない。
涙を流しながら、笑みを浮かべていることも。
ひたすら前へ駆り立てるのではなく、これまでの歩みを肯定し、労う言葉を与えたことも。
今まで導いてきたつもりだが、最後に足りなかったものを教え、与えたのは――若者の方だったかもしれない。
予想通り、別れが訪れても悲しくはない。
ただ、これほど晴れやかな気分になるとは考えもしなかった。
喜びの涙を流すことを、初めて知った。
予想を跳び越え、天空へと翔ける若者に約束する。
様々なものを教え合った、彼との日々を忘れないことを。
「……おそらくは……」
追憶から覚めたグスタフは、静かに結論づけた。
もう若者と会うことはないのだから、あれほど心が揺さぶられ、涙することも一生ないだろう。
雲一つない空のような心地を味わうことなど。
その考えは間違いだったと知らされることになる。
魔界から届いた一通の手紙によって。