『それ』は魔界の深淵より生じた。
流される血。敵への憎悪。生き延びようとする執念。そういったものから立ち昇った暗い生命の力が、『それ』を形成した。
どれほどの間彷徨っていたのかわからない。
やがて『それ』は一つの生命体となった。
黒い霧のような『それ』は住処を探し、入り込んだ。他者の体に宿ったのだ。
宿主の肉体が滅びるたびに別の器に入る。
住処を転々とするうちに思考や感情を得た『それ』は、己の体が他者と違うことを知り、戸惑っていた。
一般的な魔族や魔物とは比べ物にならぬほど長く生きられる。負傷することも滅多にない。食物も不要。強いて挙げるならば、意思ある者ならば必ず持つ暗い感情が『それ』の糧となった。
滅びから遠い体を、『それ』は何故か誇る気にはなれなかった。
自分でも理由がわからぬまま、『それ』は生き続けた。
『それ』は何度も何度も強い肉体へと移り住むことを繰り返した。血も汗も流さずに、簡単に強くなっていく。
器の力が高まれば高まるほど、『それ』の気分は沈んでいく。
気づかざるを得なかったためだ。
己は乗っ取ることしかできないと。
魔界の住人にとっては誇らしいはずの強くなる工程に、何の手ごたえも感じられない。どれほど強い戦士となっても、体から抜け出せば消えてしまう幻だからだ。
いつしか『それ』は自分の体を嫌悪するようになった。
強い体を得たところで何になるのか。
己の体を持つならば、戦いの興奮に身を焦がし、勝利の快感に酔うことができる。戦闘よりも飲酒や食事に快楽を見出すかもしれない。別の生きがいを見つけることもあるだろう。
しかし、実体を持たぬ者にとっては空しいものだ。
何のために存在するのかという疑問が常に心にあった。今の状態が生きていると言えるのか疑わしい。死んでいないだけではないかと。
そのような自問も乗っ取る際は封印した。
思考を停止し、本能に従って、他人が積み上げた力を横から掠めとる。心身を充実させる食事ではなく、ただの作業として。
感情を殺そうとしても心は疼く。
侮蔑をぶつけられるたびに精神が濁る。
魂が、冷えていく。
幾度も投げつけられた言葉――寄生虫。
杭のように打ち込まれた単語は、『それ』の心から抜けることはなかった。
闇から生まれた己の体を見れば見るほど、鍛え強くなれる他者は輝いて見えた。
どれほどの年月が流れたのか忘れた果てに、『それ』は出会った。
数え切れぬほど繰り返してきたように、さらに強い肉体に宿ろうとしていた『それ』は、一人の魔族に刃を向けた。
彼は額に第三の眼をもち、肌の色は薄い。腰まで届こうかという長い髪も、整った顔立ちも、数多の修羅を目にした後では貧弱に見えるはずだった。
『それ』はいつものように戦いを挑んだ。もし相手が強いならば、新たな器として手に入れる。それだけだ。
宿主の剣技と闘気を併用し、攻撃する。
一蹴された。
ずば抜けた速度と威力を備えた一撃が軽く返され、放たれた魔法は今までに出会ったどんな戦士よりも強大だった。『それ』はかろうじて回避したものの、防戦一方に追い込まれる。
相手は余裕があるのがわかる。予想外の健闘を称えるような表情さえしている。
痛みを感じぬ『それ』は傷ついた肉体を操り攻撃を繰り返すが、全く通じない。
男は満足そうな笑みとともに、舞のように優雅に構えた。
片手は天に、もう片方は地に。全身から魔力が陽炎の如く立ち上る。
不動の構えに対し『それ』は剣で斬りかかったが、高速の掌撃であっさり弾かれ、続いて手刀で深々と体を切り裂かれた。
『それ』の器は既に絶命してもおかしくない傷を負ったが、無慈悲な追撃が襲い来る。火炎呪文が鳥となって全身を焼いたのだ。
完全なる敗北であった。
『それ』は屈辱を感じることもなく、次なる標的へと手を伸ばした。
命の途絶えた器から抜け出しつつ、新たな器へ潜り込む。黒い影が己の体に入り込むのをどう思ったか、男は避けようとはしなかった。
魂の回廊を通過するうちに『それ』は眼に感嘆の色を浮かべるようになっていた。
極限まで鍛え抜かれた肉体。今まで出会ったどの魔族とも比べものにならぬ魔力。この身体ならば己の特性たる暗黒闘気も存分に振るえる。
まさしく最高の器だ。
奥へ奥へと進む『それ』へ周囲から言葉が滲んだ。
「お前は、他者の体を操ることが出来るのか」
『……ああ。どのような身体であろうと、な』
『それ』が返答するまで間があった。他人とまともに言葉を交わすのは久しぶりだ。
尊敬すべき強さを持つ相手だけに、常ならば答えぬ質問にも言葉を返した。
男の声に侮蔑や嘲笑が含まれていないためでもある。今まで乗っ取ってきた者達と違い、罵るつもりはないようだ。
「素晴らしい能力だな」
『素晴らしい? 自らを鍛えることのできない能力が?』
「そうではない」
男は笑ったようだった。
初めて聞いた肯定の言葉は『それ』の心に真っ直ぐ飛び込み、突き刺さった。
新鮮な感情に精神を揺さぶられ、目を細める。別れを心から惜しみながら相手の魂を掴む。
『この体は……丁寧に扱おう』
標的にとっては挑発にしか聞こえない台詞だが、『それ』はどこまでも真面目に告げた。できることはそれくらいしか見つからなかったのだ。
『それ』が魂を握り砕こうとした刹那、内側から何かが迸った。
ただの光でも闇でもない、炎。心に焼き付く鮮烈な輝き。
『これは、まるで――』
脳裏によぎった単語を、『それ』は直接目にしたことがない。魔界の空には存在しないのだから。
見たこともないものを連想したおかしさに『それ』が気づくことはなかった。
あらゆるものを焼き焦がさんとする凄まじい熱に全身が呑まれたのだから。
今までの器は簡単に魂を砕くことができた。失敗したことなど一度もなかった。
実体を持たぬはずなのに焼かれ、『それ』は消滅を覚悟した。今まで敵は葬るか、道具として使い捨ててきた。自身が敗れた時も同様の扱いを受けるはずだ。
静かに滅びを受け入れようとする『それ』に、声が響く。
「お前の能力こそが必要だったのだ。余の体を預けるために」
続いて、厳かな宣告。
「お前は余に仕える天命をもって生まれてきた」
それは神託だった。
いつしか『それ』は男から抜け出し、跪いていた。
知識はあったものの実践したことがない作法に則り、臣下の礼を取る。
己を打ち負かし、支配を跳ね除けた相手。嫌悪し続けた己の体を認め、必要だと告げた存在に。
「お前はこれより余のために生きる。余の……大魔王バーンの真の姿を覆い隠す霧となれ。ミストよ」
『それ』――ミストに求めていたものが与えられた瞬間だった。