マグマがたぎる暗黒の世界で、誰かが声を上げた。
荒れ果てた大地を踏みしめ、一人の幼い魔族が暗くよどんだ空を見上げている。固く握り締められた拳からは血が滴り落ちている。
「何故だ! 神よ!」
叫びは血を吐くようだった。表情には怒りと憎しみが満ちていた。
眼差しには炎のごとき渇望が宿っている。
少年の手がゆっくりと光無き空へ伸ばされた。
そこに掴む対象は存在しない。
天に何を叫ぼうと、祈りも、呪いも、聞き届ける者はいない。
彼を見下ろすのは分厚く立ち込めた暗雲のみ。
虚しく手を下ろした彼の口から、軋るような声がした。食いしばった歯の奥から、激情のうねりが漏れる。
「私は世界の姿を変える。奪われたものを取り戻してみせる!」
彼は前を見据え、力強く歩み始めた。
静寂が室内を支配していた。
白銀の髪に目元が隠れ、大魔王の表情を窺い知ることはできない。
数千年をかけた遠大な計画。太陽を手にするために地上を破壊するという、神をも恐れぬ所業。
実現まであと一歩というところにまで迫った野望が潰えたのだ。
それも、彼が信条としていた力ではなく、信じていなかった絆によって。神の遺産によって起こされた奇跡で。
一言も発しない大魔王にダイもポップも戸惑ったが、気を引き締める。相手は不屈の精神を持つ男だ。邪魔者を殺し、計画を再度実行しないとは言い切れない。
おそらく、バーンもそのつもりだったのだろう。
どこからともなく声が響くまでは。
『大魔王バーンよ』
聞き覚えのない声にバーンは怪訝そうに周囲に視線を送る。
その場に立っているのはダイ、ポップ、レオナの三名。後の者は瞳と化し、喋ることもできない。神の涙の効力も消えた今、地上の者達の声を届ける術はない。冥竜王も先ほど通話を打ち切ったばかりだ。
「何者だ」
バーンのいらえは低い。届いた声は穏やかながらも、不穏な気配が潜んでいる。
『我々は、神』
答えたのは別の声だ。最初に聞こえたものと比べると重々しく、やや聞き取りづらい。
瞳化した者も含めその場にいる全員が息を呑んだが、バーンだけは平然としている。魔界の神と呼ばれ、神をも超える力を持つとまで言われた男だ。おそらく、今最も神に近い位置にいる存在だろう。
神々が一体何を告げるのか。全員が神経を集中させて次の言葉を待った。
最初に響いた柔らかな声が、再度喋り出す。
『地上を破壊するつもりならば好都合と思って見ていたけれど、失敗に終わったようだね。では僕達が世界を滅ぼすことにするよ』
空気が凍る。
バーンもその言葉は予想外だったようで、軽く目を見開いた。
「な……なんでそんなことを!」
ダイの叫びが部屋にこだました。地上の平和を守るために必死で戦い、ようやく敵の計画を挫くことができた途端に無情な宣告が下されたのだ。今までの戦い全てを否定する仕打ちに混乱している。
『竜の騎士を作ったり、住む世界を分けたり、神の涙を生み出したり、色々やってみたけど上手くいかない。どうしたものかと悩んでいたら、いつの間にやらなかなか愉快な状況になっているじゃないか』
『何が愉快だ。不快の間違いだろうが』
答えたのは別の人物だ。冷ややかな声の主は、不機嫌さを隠そうともしない。
『大体貴様は――』
『そういうわけで、うんざりしたから全部消してやり直そうかと思ってね』
凍てつく声を遮って、最初の声は破滅を予告する。どこまでも朗らかに。
軽い口調で恐ろしいことを言い出した相手にポップ達が食ってかかった。
「ふざけんな馬鹿野郎! 大魔王だろうと神だろうと地上を好き勝手にしていいわけあるかっ!」
「せっかくゴメちゃんが起こした奇跡を……無駄にさせてたまるか!」
身を震わせる少年達とは対照的に、バーンは冷静そのものだ。穏やかとさえ呼べる表情で神の言葉を聞いている。
「神などに壊されるのは残念だが……好きにすればよかろう。地上を守る義理もない」
バーンにとって地上破壊は、太陽を手に入れる手段に留まらない。神々への復讐をも叶える方法だった。
心情面では冷遇の証を吹き飛ばすという意味が込められている。実利においては、世界の均衡を崩すことによって天界に攻め込める。
一手で幾つものメリットを得られるはずだった。
今回の宣言で復讐という要素が抜け落ちてしまったため、興ざめだと言いたげな顔をしている。長年力を蓄え計画を進めてきたというのに、自身の手で為せないのは物足りないに違いない。
「人間を優遇してきた連中が随分な変わりようだな?」
数千年単位の目標が突然消失し、思うところもあるはずだが、バーンは感慨に耽る様子はない。困惑や混乱を抱いているだろうに、表に出さずにいる。優先事項は神々の真意を確かめることだと定め、淡々と言葉を突きつける。
余裕さえ感じられる表情が、次の瞬間一気に険しくなった。
『破壊するのは魔界もだよ』
予想外の内容にダイやポップまで絶句した。
柔らかな口調のまま、残酷な言葉が紡がれる。
『言っただろう、全部消してやり直すって。今回は平等に扱うよ。……君の望み通りにね』
ダイとポップが反論しようとした刹那、一気に空気が冷える。二人の視線はバーンに向けられ、縛りつけられたかのように動けない。
戦い始めた頃は泰然としていた。
爆発直前には興奮を露にしていた。
今、面には冷ややかな怒りがみなぎっている。大魔王の本気の眼差しに、神々以外は圧倒されている。
「地上破壊ならば止めようとは思わぬが、魔界をも破壊するというのならば話は別だ。余が阻止する」
拳を握りしめながら告げたバーンに、三種の声が重なる。
『……全て、夢であればよかったのに』
『見るに堪えんな。何もかも』
『最後のチャンスだ。せいぜい楽しませてもらうよ』
重い声、冷たい声、穏やかな声。どれも具体的な情報を与えるつもりはないのか、そこで気配が消えた。
再び沈黙に包まれたが、先ほどまでとは明らかに質が違う。
半ば祈るような心地でダイ達は大魔王の姿を注視する。
大魔王は誇りにかけて、神々の蛮行を許しはしないはずだ。少なくとも地上破壊計画は後回しになるだろう。
固唾を呑んで見守る一同の前で、バーンはようやく口を開いた。
「どうやらこれ以上の争いは、神を利するだけになりそうだな」
語るバーンの眼にダイ達は映っていない。
すでに彼の中で戦う対象は天へと移っている。
ダイとポップは顔を見合わせ、揃って重い息を吐き出した。ダイは表情を曇らせ、ポップは頭を抱えたくなる衝動をこらえるだけで精一杯だ。
「一難去ってまた一難どころじゃねえや……」
ポップの呟きが虚しく響き、消えていった。
目前の危機が去り、皆殺しという最悪の事態は避けられた事に喜ぶしかない一行であった。