青白い霞の中で、黒い影が周囲を見回していた。
「ここは……?」
彼は戸惑ったように己の体を眺めた。実体を持たぬ、黒い霧の集まった姿を。
暗黒闘気の集合体である彼は、ミストまたはミストバーンと呼ばれていた。
光の闘気に飲み込まれ消えたはずだったが、かろうじて意識を保っている。
ミストは己の体を見下ろした。
元々曖昧な輪郭がさらに薄れていく。このままでは完全に消滅してしまう。
不確かな体から力が抜け落ちる感覚を味わいながら、影は目元をゆがめた。
(私は、消えるのか)
消滅に対する恐怖より、主の役に立てない事実が苦かった。
ふと、彼の瞳が見開かれた。霞の向こうに何者かが現れたためだ。
靄を斬りはらうようにして目前に現れた姿。
それはかつて影が殺そうとした男だった。
深い緑色の肌に、銀の髪。堂々たる体躯の持ち主は、勇者ダイと伝説の戦いを再現したほどの強者。
「ハ……ハドラー……」
言葉が上手く出てこない。偉大な主を除けば誰よりも尊敬したと言ってよい男が、静かに佇んでいるのだ。
「お前がここにいるということは、人形などにお前の魂は宿らなかったのだな」
影の声は知らぬうちに安堵に揺れていた。敬意を抱いた男が金属でできた人形に宿ったなど認めたくはない。
ハドラーは何も答えず影を眺めるだけだ。
沈黙が二人を包む。
最後に顔を合わせたのはハドラーがバーンに挑んだ時。決別が無かったかのような穏やかな空気にミストは疑念を抱いた。
ハドラーはミストの正体を知らないまま命を落としたのに一切言及しない。侮蔑どころか、問いただす素振りすらない。
(消える間際の幻か)
そう結論付けたミストは、少し俯いて目を細める。
あの世が存在するかどうかも不明で、仮にあったとしてもハドラーと同じ領域には辿りつけないだろう。
一度隔たった道が交わることはない。
忠誠を優先し、ハドラーを切り捨てたのは、他ならぬ影自身だ。
外の世界から声が聞こえたかのように、ハドラーの姿をしている人物は上方を仰ぎ見た。
薄れゆく黒霧に視線を戻し、ようやく口を開く。
「お前の目にアバンや使徒達はどう映る?」
幻だと思いながらもミストは率直に答えた。
「バーン様の敵だから倒すべき存在だ。力を身につけ戦おうとする姿勢は好ましいが、容赦する理由にはならん」
戦う理由は主の敵であるという一点。彼にとってはそれが全てだ。
「敵でなくなれば?」
「バーン様の御意思次第だ」
「大魔王さまのお言葉は全てに優先する、だったな」
影の生き様を簡潔に表現した言葉であり、何度も口にしてきた台詞だ。
頷いた影に対し、相手は静かに告げる。
「お前は大魔王以外の存在を道具と見なしていたな」
「……ああ」
眼前の男を殺そうとした時、駒や道具にすぎなかったのかと尋ねられても、先ほどの言葉をもって答えとした。
過去の非情な仕打ちを非難しているのかと思ったが、恨みがましい口調ではない。
「己を含める覚悟はあるか?」
「当たり前だ」
即答だった。
許可なく封じられた力を使うほど追い詰められた状況でも、肉体の返還を求められればすぐさま従った。主のためならば己の身を危険に晒すのは当然のことだ。
きっぱりと言い切ったミストに対し、男は低い声で告げる。
「それを証明する方法は……分かっているだろう」
信念を語りたければ、口を動かすだけでなく、行動で示さねばならない。
それは影も承知しているが、主のために戦いたくとも力は残されていない。
「オレが認めた者達は、どれほど絶望的な状況でも諦めない、強い心の持ち主ばかりだった。精神が肉体に力を与えたかのように立ち上がり、戦ってきた。……お前はどうだ?」
彼の言葉がきっかけとなったかのように、深淵に引きずり込まれるような感覚が和らいだ。
反射的に己の黒い掌を見つめ、ミストは沈黙した。
戦い続けようとする意思から生まれ、闘気で構成された身体。肉体と精神の両方があって成り立つ生命の中で、後者の割合が非常に大きい特殊な存在。
闘志を燃やせば、戦うために在るような体は応えようとするのかもしれない。
尊敬する戦士は真っ直ぐに影を見つめている。
「お前はかつてオレに言ったな。『お前には生死を選ぶ権利もない。死してもなおよみがえり、戦え』と。主である大魔王のために」
ハドラーを自らの暗黒闘気で復活させた際に告げた言葉だ。
言葉通り、大魔王の意思に従って蘇生させたことも、始末しようとしたこともある。
「あの時の言葉と行動、そのまま返すぞ」
男が手をかざすと、ミストの身に黒い炎が流れ込む。消滅寸前で踏みとどまっていた身に少しだけ力が湧いた。
「お前は――」
起きている出来事が信じられないかのように、ミストは呆然と呟いた。
男の姿が薄くなっていく。周囲の霧が濃くなり、燃え盛る炎のように揺れる。
世界に銀色の光が弾け、ミストの身体は浮上する感覚に包まれた。
バーンが一行を殺す気を無くしたため、ダイもポップも安堵の溜息を吐いた。
いくら地上破滅計画を阻止したと言っても、大魔王とこのまま戦えば死んでしまう。
バーンの額にある第三の眼、鬼眼。魔力の源であるそれが鈍い色に輝くと瞳が砕け、閉じ込められた仲間が姿を現した。
誰もが疲れ果て、傷つき、消耗している。まともに立てる者はいない。
バーンはつかつかとヒュンケルに歩み寄った。何をするつもりなのか掴みかね、ダイとポップが止めようとした。クロコダインが盾となるように立ちはだかるが、バーンはそれを軽く退ける。
彼が鬼眼を光らせると一筋の光線が走り、ヒュンケルの胸を貫いた。若者が眼を見開き、衝撃に膝を折る。
だが、瞳になるわけでもなければ、流血する様子もない。
「お前にはまだまだ働いてもらわねばならぬ」
呼びかけに応えるように、黒い煙のようなものがヒュンケルの体内から出てきた。暗黒闘気の集合体、ミストだ。光に飲み込まれたものの、完全に消滅してはいなかった。
それでも姿を維持するだけで精一杯なのか、かつてのように濃密な影ではない。今にも消えてしまいそうだ。
「バーン様……。お役に立てずに、申し訳ありません」
発する言葉は役目を果たせなかったことへの謝罪のみ。
いくら冷酷な大魔王でも、心から謝罪する影を責める気はない。
幾千年もの間己に尽くし続けてきた、最も信頼できる部下なのだから。
「よい。突然だが今度は神々と戦う」
「はっ?」
ミストの目が丸くなった。間の抜けた反応にバーンは笑みをもらす。
「右腕たるお前の力が必要なのだ。ミストよ」
「……っ!」
ミストがますます目を見開く。
彼は先ほどまで勇者一行と死闘を繰り広げていた。消滅しかけ、ようやく意識を取り戻したと思ったら敵はいつしか神々に変わっている。混乱するのも当然だが、ミストは嬉しそうだ。当惑の色はたちまち消え失せ、実体を持たぬ身で深々と頭を垂れる。
「仰せのままに、バーン様」
ようやく一行はバーンが部下を復活させたことを知った。いくら大魔王の力が強大でも、手下がいなければ動き辛い。最も忠誠心厚きミストを必要とするのは当然のことだ。
彼がダイの剣に手を掛けると、刃は抵抗なく抜け、床に落ちた。ダイ達への敵意が無くなった証拠だ。
すでに気持ちを神々との戦いに切り替えているバーンに、ダイがおずおずと語りかけた。
「あのさ、バーン」
バーンは目で続きを促す。
「神様ってのはすごい力を持つんだろ? だったら――」
「協力しろとでも言うつもりか? つい先ほどまで殺し合っていたことを忘れたのか? 神の遺産たる竜の騎士や人間などと手を取り合う気にはなれぬわ」
鼻で笑うバーンと同じく、ポップもダイの言葉を一蹴する。
「そうだぜ。大勢の人間がこいつのせいで苦しんで、お前だって親父さんを……協力なんて!」
「おれだってバーンのしたことは許せないよ。でもおれたちだけで神さまの計画を、世界の滅亡を止められなかったら……」
「それならば安心するがよい。余が神々を殺して終わりだ」
ダイは唇を噛んだ。協力や共闘の可能性などはるか彼方だ。
「本当に、それで済むのかな」
大魔王の力強い言葉を聞いてもダイの表情は曇ったままだ。
バーンの行いは許されないが、過去のことを一時的に水に流してでも、と思ってしまう。
協力できないまま地上が破壊されてしまったら、悔やんでも悔やみきれない。
ダイもいきなり神を討とうと考えているわけではないが、話し合いの通じない相手がいることはよく知っている。己の信じるものが通じず、力で踏みにじってくる相手には、力をもって立ち向かうしかない。
「さらばだ。勇者達よ」
バーンの口調がこれ以上会話する気はないと雄弁に告げている。
ダイは言葉を呑み込むしかなかった。