「……らしくねえ」
ナナシはため息を吐いた。
彼の前にはアルミホイルを被せたボウルがある。
何度見つめても風景は変わらない。
彼が立っているのは汚れの見当たらないキッチン。ボウルの中身はたくさんの貝。
アサリの砂抜きの最中だ。
(何してんだろうな。俺)
ナナシの脳裏にその疑問が浮かんだのも一度や二度ではない。
反社会的勢力に飼われて死体の処理だの薬の取引だのやらされていた雑務用HANOIが、何故料理の下ごしらえに精を出しているのか。
繰り返し自問しては、導き出された答えをしまい込んでいる。
人間から命じられたのならば疑問の余地はない。
今のナナシは、頼まれてもいないのに料理の下準備をしている。己の意思でしていることなのに実感がわかない。
ナナシがいるのはTOWERというバーチャルの世界だ。ストレス値の高いHANOI達が集められ、人間を模した敵を倒してうっぷん晴らしをする場所。
監察官NO.102、コーラル・ブラウンの本部は、住人の関係は良好で、塔の攻略も順調だった。
この本部ではHANOI達が当番制で料理や掃除を行う。
料理を作るのも食べるのもHANOIだが、たまに監察官から頼まれて、彼に手料理を振舞う時もある。
ナナシも作ったことがあるが、当初は手の込んだものではなかった。
コーラルと出会って間もない頃、空腹を訴えた相手にナナシはゆで卵を渡したのだ。
「こんなものを食わせるのか」と怒られることも予想しながら。
食べられるものを作ったから殴られるまではいかないだろうという考えもあったが、暴力を振るわれる事態も想定しておく。ダメージを少しでも軽減するために。
(いい人のフリをしてるから、『雑務用ごときに期待したのが間違っていた』なんて失望を隠そうとするかもな)
冷めた目で監察官の反応を窺っていたナナシは拍子抜けした。
ゆで卵を渡されたコーラルは満面の笑みでかぶりつき、賛辞を贈ったのだ。
「ん~、絶妙なゆで加減!」
「……はい?」
あっけにとられたナナシの前で卵は消えてしまった。コーラルの胃袋に収まるまでほんのわずかな時間しか経っていない。
「美味しかったよ。ごちそうさま」
礼を述べたコーラルは、唖然としているナナシにしみじみと語りかける。
「あんなに殻をスルスル剥けるなんて器用だなぁ。ありがとう、ナナシ」
ナナシは無言でコーラルの背中を見送った。
(……次はもう少し気合入れるか)
密かにナナシはやる気を出した。
いくら雑務用でも、ゆで卵しか作れないと思われては面白くない。
ゆで卵がベーコンエッグに変わり、気づけばカプレーゼだのゼッポレだの作るようになっていた。
現在アサリの砂抜きをしている。
とびきり美味しいボンゴレパスタを作るために。
ここまでやることになるとは、ナナシは全く予想していなかった。
「おや、ナナシ……どうした……?」
「お」
声をかけてきたのは調理用HANOIのジョルジュだった。
「お前を唸らせている懊悩の坂に、助けとなる杖は必要か?」
「いや。こんなことするなんて似合ってねぇなって思っただけだ」
「Non」
ジョルジュはきっぱりと否定した。
「心にAmour……愛の光が灯るのも、料理を通じて伝えることも、似合わぬ者などいない」
ナナシは苦笑し、掌を振る。
「大げさな。この程度の料理、調理用にとっては大したこと――」
「食べる者の好みや体調を考え、広大なレシピの海を渡り……練習や下ごしらえという旅路を経て、珠玉の一皿に辿り着く。……それをなすのは料理の探究者。食の旅人だ」
謳うように滑らかに言葉が綴られていくのを、ナナシはむず痒さを感じながら聞いていた。
「その熱意を受けて翻る旗に敬意を。お前の掲げた愛の旗が皆を勇気づけ、私の心を満たしている」
胸に手を添えて語るジョルジュの口調は厳かだ。芸術家が美の女神を語るかのように、心から称賛している。
「そりゃどーも。でも愛だの何だのは言い過ぎだろ」
HANOIが感情だと思っている何かは人間に植え付けられただけ。
頭の中を走るものはただの記号だ。
組の人間から罵倒や暴力とともに吐き捨てられた言葉が蘇る。
ナナシが納得しようとした時、別の言葉が湧き上がり、かき消した。
『僕は君のあらゆる感情を……ただの記号だなんて思っていない』
コーラルの言葉を反芻したナナシに、ジョルジュは質問を投げかける。
「ならば……お前が料理を作ろうとする時、心のキャンバスに何が描かれている?」
ナナシは己の内側を検索した。
浮かんだのは、ある人間の笑顔。この本部の監察官、コーラル・ブラウンの。
料理を見た瞬間、コーラルは目を輝かせる。
『うわあ……すごい』
彼はまず視覚でじっくり味わった後、口に運ぶ。
途端に締まりのない顔がますます綻び、この世の幸せを謳歌している表情になる。
丁寧に咀嚼して、飲み込んでから、彼はしみじみと呟く。
『美味しい……!』
噛みしめるような賛辞は喜びに満ちている。
残さずたいらげて、コーラルは手を合わせる。
『ごちそうさま。ありがとう、ナナシ』
感謝の言葉も欠かさない。
組にいた頃は一度も与えられなかったものを、コーラルは当たり前のように投げかけてくる。
一連の映像は想定よりもずっと鮮やかに再生され、ナナシは顔をしかめた。
気恥ずかしさをごまかすために、彼は肩をすくめてそっけない口調を作る。
「たいしたことでもないのにわざわざ労ったり、いちいち心配したり、お忙しいはずの監察官様はヒマなことで」
馬鹿にしているような台詞にジョルジュが微笑で応えたため、ナナシの方が眉を寄せることとなった。
「……嬉しそうだな?」
「Oui……お前の喜びは我が喜びだからだ」
「そりゃ随分とお人好しだな。俺には理解――」
そこまで言いかけて言葉がぷつりと途切れた。
コーラルの喜ぶ言葉が。表情が。
ナナシの『喜び』のフォルダに保存された。
それらは消えることなく増えていく。
「あー……いや……」
幾度も浮かんだ疑問の答えを直視してしまい、ナナシは口元をひくつかせた。
料理の下ごしらえに精を出す理由は単純で、とっくに辿り着いていた。
何度経験しても飽きることはない感覚を求めて、調理に励むようになっていた。
誰かのものであり、己のものでもある喜びを噛みしめるために。
(らしくねえ)
先ほどと同じ呟きを漏らして、ナナシは遠くを見つめる。
似つかわしくないのは、張り切って料理する行為だけではない。
人間を信じ、心を開くこと。喜びを求めて行動すること。それらはTOWERに来る前の彼には想像もつかなかった。
ましてや、己の行動が報われるなど考えられなかった。
それなのにコーラルは応えてくれる。
この本部ではナナシにとってありえないことが次々に起こる。
非現実的な状況に、彼は夢を見ているような気分に陥っていた。
(……そうだ。ここでの生活は短い夢みたいなもんだ)
コーラルを信じると決めてから、ナナシの電子頭脳はふわふわした感覚に包まれている。これが浮かれ心地というのだろうと、他人事のようにぼんやりと感じている。
コーラルにそっけなくしていた彼が態度を急変させたのも開き直りに近い。
夢の中ならば恥ずかしい台詞も堂々と吐ける。夢だからこそ積極的に行動できる。
コーラルと会話し、からかい、探索に同行し、戦う。高揚する心のままに。
「理解、できるわ」
先ほどのジョルジュ言葉に同意を示し、ナナシは目を閉じて笑った。
TOWERから出れば、浮かれた気分は地べたに叩きつけられる。それを分かっていながら――分かっているからこそ、高く跳ぼうとしている。
今のうちに甘い夢を味わっておかねばならない。
少しでも多く、心の器を温かいもので満たすために。
味わいの無い日々に戻っても、この場所で覚えた味を思い出せるように。